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Diary 2003
2003-12-29 卒業生との食事会
 28日、今年の春に卒業した4人のロシア語学科卒業生といっしょに久しぶりに食事をする機会がありました。みんな元気で仕事をやっているようです。もう仕事納めの人もいたし、まだ29日も仕事がある人もいました。ホテルのレストランでちょっとリッチな気分でランチを食べたあと、ホテルの入っているビルの下にあるインテリア・ショップなどをぶらぶらして、のんびり過ごしました。もうみんなすっかり社会人という感じで、しっかりしています。レアもののカレンダー、ありがとう。
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2003-12-29 都立大の集中講義
 例年どおり、12月22~26日、都立大法学部で集中講義をやりました。1日4コマ4日間(最終日のみ3コマ)で計15コマ、半年分を一気にやってしまうというハードスケジュールですが、ハードなのは教師の側よりも学生さんの方かも知れません。
 なるべく飽きないようにビデオを見せたりなどの工夫をするのですが、適当なビデオ教材があまりないので、毎年、苦労しています。それでも、リピーターがいるなど、熱心な学生さんが多いので、教える側にも熱が入ります。
 今年はLectureのページにもあるように、「日露関係」について話したのですが、少しでもロシアに興味を持ってくれたらと思って、日露の心温まるエピソードなどを交えて話をしました。
 最終日に数人の学生さんと、大学の近くのコーヒー・ショップで、いろいろ話をしましたが、ロシアについて関心を持ててくれてよかったと思いました。
 ところで、そのうちの一人の学生さんから、メールをいただいたのですが、なぜかdocomoからのメールに返信しても帰ってきてしまって、返事が届きません。このDiaryで返事をしますね。「こんどはウオッカでも飲みながら」ということですが、ウオッカもいいですけど、ロシア料理を食べにいきましょう! よろしかったらまた連絡を下さい。
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2003-11-24 推薦入試・編入試験
 11月22-23日、上智大学では学部の推薦入試・編入試験が行われました。
 ロシア語学科には、推薦入試には38名の高校生が、編入試験には2名の大学生が、受験しました。推薦入試の合格者の定員は15名ですから、志望動機も明確でやる気があり、評定平均値も4.0以上という優秀な受験生を、相当数不合格としなければなりません。北は北海道から南は沖縄まで本当に全国から受験生が集まりました。また年2回のオープンキャンパスに2年生のときから毎回参加しているという熱心な受験生もいました。
 調査書や自己推薦書、課題作文を事前に出してもらい、さらに22日に筆記試験(小論文とロシア・ソ連についての知識を問う問題。公募推薦のみ)、23日に面接(指定校推薦および公募推薦)をして、合格者を決めるのですが、これは大変な作業です。調査書、自己推薦書、課題作文、小論文を、それぞれすべて読むのですから相当に時間がかかります。もちろん1日では終わりませんから、事前に提出されている調査書、自己推薦書、課題作文は、試験前までに読んでおきます。
 22日は試験の採点と小論文の読破です。そうして面接に望みます。
 面接では、少し緊張していた生徒さんもいましたが、みんな感じのいい生徒さんばかりで、なかなか優劣がつきにくく、困ってしまいます。しかし、涙をのんで合格・不合格を決定しなければなりません。
 編入試験は他大学の2年次生が2名受験しました。ロシア語試験と小論文、面接を22日の1日で終わらせます。編入試験はやはりちょっと雰囲気が違います。ロシア語の力が重要なポイントになります。
 大学にとって入学試験はとても大切なものです。私たち大学教員はこれに非常に多くのエネルギーを注いでいます。もちろん受験生の皆さんも真剣です。しかし私たちも同じように真剣です。だから受験生と同じように疲れます。推薦入試で最後に面接した受験生の方に「長い間お待たせしました。お疲れさま」と言ったら、「先生たちこそお疲れさま」と言われ、思わず苦笑しましたが、本当にお互いお疲れさまでしたね。
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2003-11-13 就職内定者を囲む懇談会
 11月12日、就職内定者を囲んでの懇談会が行われました。就職に苦労した人も、あっさりと決まった人もあって、人それぞれですが、いずれの学生も、就活を通して、授業では得られない経験を積んで着実に成長していったことが、それぞれの話を聞いていて、よくわかります。多くの学生にとって、おそらく初めて社会というものと真正面に向きあったのが就活だったのでしょう。
 100社にエントリー、50社訪問などという話を聞きながら、自己分析、業界についての調査や情報収集、面接などを通じて、ロシア語の勉強とはまったく違う経験を積んでいった、ひとりひとりの成長の過程が、よく理解できました。それにしても、ほんとうにみんな、すごく成長していて、驚きました。話を聞いていて、ロシア語あるいはロシア地域研究の勉強が、社会とどのようにかかわっているのかということを、教師の側も、学生の側も、もっと自覚していかなければいけないと思いました。大学を卒業したあとどのように生きていくのかということと、ロシア語学科の学生としてロシア語とロシア地域研究を学ぶこととが、どのようなつながりがあるのか、そういうことをちゃんと考えて、勉強していかなければならないわけで、そうしたことを学生と一緒に考えていく教師にならなければならないと思いました。
 懇談会のあと、四ッ谷駅近くのイタリアレストランで食事会がありました。小生にとっては、久しぶりに会う学生も多く、楽しいひとときでした。
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2003-11-04 就職が決まって
 今日、授業で会った4年生2人の就職が決まったとの報告を受けました。
 ひとりは朝の授業で、久しぶりに会ったので、就職はどう?とたずねたときは、まだ決まっていないとのことで、そうかぁ、とちょっと心配だったところに、そのあとで、内定の知らせが携帯にでも入ってきたんでしょう、内定がとれたとの知らせを聞きました。あるメーカーに決まったそうですが、本当によかった。とてもよい学生さんで、何でなかなか決まらないんだろうと、授業をしながらも思っていたのですが、本当によかった。
 もう一人は、ゼミの学生さんで教員志望の人ですが、高校の英語の教員になることが決まったとのこと。史学科の学生さんなので社会の免状を取っていることは知っていたのですが、英語の免状も取っていたとは! 都立高校出身のこの学生さんは、なかなか個性的なところもあって、とっても素晴らしい学生さんで、本当にいい先生になるだろうなぁという学生さんなんだけど、教員は難しいからなかなか決まらないだろうなぁと思っていたところだったので、やったね! という感じです。
 ところで、キリン生茶のCMにロシア語が出てきます。後半にロシア人らしき男性が出てきて、松嶋菜々子と短いロシア語のやりとりをしているだけなのですが。松嶋奈々子のロシア語の発音は今ひとつですが、なかなか楽しいCMです。大したことじゃないんですけど、そんなことも今日は知った楽しい1日でした。
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2003-10-26 卒業生へのメール
 すみません、少し長くなってしまいました。時間があるときに読んで下さい。
 「半年ぶりでしたが、戻ろうと思えばすぐにでも学生に戻れる気がして不思議な気持ちでした」。卒業して半年ぶりにキャンパスを訪れたあなたの味わった「不思議な気持ち」をぼくは味わっていないような気がします。
 ぼくは日吉に2年、三田に10年通い、32歳で防衛庁に入省したので、三田にいるあいだにすでに学生気分ではなくなっていたし、はやく中途半端な状態から脱出しなければと思っていたものですから。
 三田の中庭には大きな銀杏があって、毎年11月23日前後の連休に行われる三田祭の真っ最中に、はらはらと黄金色の葉を降らせることで知られています。学部を卒業すると三田祭の喧噪とはもうまったく無縁で、三田祭のあとのしっとり静まりかえった三田の中庭の寂しげな銀杏を、無味乾燥なロシア語の法律書を読んでかすんできた目で、あてのないこういう生活がいつまで続くのかと思いながら、図書館の窓からぼーっとながめていました。毎日毎日通い詰めた三田の図書館にも、奨学金が切れてからの3年間は、たった週1回、木曜日の午後に1コマある大学院のロシア語原書講読の指導のために出かけるときにしか行けず、それ以外の日は立川や新宿で塾教師をしているだけの毎日でした。あのころ、学部を卒業して就職した悪友たちも、5、6年もたてば、すっかり立派な(?)社会人になり、海外勤務が決まっただの、係長になっただの、という話も伝わり、それに引き替え時給数千円という塾教師の自分はいったい何をしてるんだろうと、就職の決まらない不安な秋をまた過ごしていました。
 塾で中学生や高校生に、平家物語の敦盛の一説を琵琶法師よろしく語り聞かせたり、古典文法を教えたりするのは好きでした。夏期講習が明日の朝から始まるという前日の夜になってもテキストが出来上がらないというような、いつもいつも自転車操業だった塾も、生徒たちがいたから楽しい職場でした。その仕事とソ連研究を続けていくということのギャップが、一人になったときに、いつも自分を苦しめていました。
 「この職場でどうやっていけばいいのか」、「どんな自分になりたいのか」、「自分を見つめ直すにも時間がない」という今あなたが置かれている状況がどんな状況なのかは正直言ってぼくにはよくわかりません。しかし、あの頃、まったく同じことをぼくも考えていました。
 ぼくは「権力」の問題を16歳の頃からずっと考えてきました。もちろん16歳の頃は自分が考えていることが「権力」という概念に関係していることなどとは分かっていませんでした。遠くで起こっている戦争や貧困、そして身近にある差別や少年非行、こういうことがどうしてあるのか、それが解決されないのはなぜなのか、なぜみんなそれを許しているのか、無力なのか。17歳の頃、そういうことを自分の年頃の少年たちと一緒に考えることのできるのは学校の教師なのに、そういう教師が少ないと思って、自分は社会科の教師になろうと思い立ちました。若気の至りと言えばそのとおりですが。 ずいぶん回り道をしましたが、そして高校の社会科教師ではありませんが、ともかくもようやく46歳にして大学の専任教員になりました。
 今年、「ロシア・東欧の法と社会」の授業で、人権や立憲主義について話しました。公権力の担い手に対して、あなたたちは権力を持っているのだから、それを濫用しないようにこれを守りなさいと国民の側が突きつけたものが憲法であり、法律です。憲法を守る義務は国民にあるのではなく、公権力の担い手の側(公務員)にあるのです。公務員は国民の権利を守るために、憲法と法律を守る義務を負っているのです。
 世の中のほとんどの中学校や高校の先生は、こんなことすら分かっていません。わかっていないのは一般の公務員も同じです。 試験では憲法は必須なのにね。そんなことを教えながら、学生一人一人に誠実に向き合って、大したことはできないけれども、一緒に考えていくことが、教師にとってもっとも重要なことだと今でも思っています。
 大きな組織の中で、自分は何をすべきかは、自分で考えるしかありませんが、大したことはできないけれども、誠実に、思いやりを持って生きていこうと考えればいいのではないでしょうか。思いやる対象は、同僚や上司や部下の場合もありますが、多くの場合は、そこにいない人たちです。だから想像力が必要です。人は何かの役に立ちたいと思うものです。自分の存在は、相手がいて初めて分かる(意味のある)ものです。だから、人の役に立ちたいと思うのです。皆そう思っても、多数の人を犠牲にして特定の人の利益にしかならないような、あるいは無意味に思えるような仕事をしなければならない人が世の中にはたくさんいます。
 もう一度、子どもの頃、あるいは純粋だった頃に戻って、考えてみて下さい。では、また。
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2003-09-30 一人だけの卒業
 上智大学には9月卒業という制度があります。今日、その制度を利用してロシア語学科を卒業する「のんかん」に卒業証書を渡しました。たったひとりだけの卒業です。セレモニーはあんまり好きじゃないので、さりげなく、はい卒業証書、みたいな感じで卒業証書を渡しましたが、感無量です。
 在学4年半、小生は3年半おつきあいしてきましたが、いろいろお世話になりました。教師が学生にお世話になるというのも妙ですが、「のんかん」のいたおかげでいろいろ助かったことは事実です。「のんかん」はよく勉強したなぁと本当に思います。
 正直、学生を送り出すというのは、本当に寂しいものです。就職先は10月採用ということで、あわただしい中で感傷に浸る間もなく、今日も研修、明日からは本格的に勤務が始まるとのこと。ロシア語の辞書を傍らに置いてこれからも勉強を続けてくださいね。
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2003-09-25 ゼミ合宿
 9月21日(日)から23日(火)まで2泊3日で伊豆西海岸の戸田(へだ)村でゼミ合宿がありました。台風が来ていたので、どうかなと思いましたが、雨に降られたのは21日だけで、2日目からは天気が良くなり、とくに23日は快晴でした。参加者は小生を入れて13名でした。小生以外の12名の内訳は、今年の3月に卒業したOG1名、院生1名、4年3名、3年5名、3年の非ゼミ員のオブザーバー2名です。また、3年の1名は2日目からの参加でした。
  1日目は、JR東京駅に9時に集合し、9時過ぎ発のJR東海道線に乗り、途中駅で合流しつつJR三島に11時過ぎに到着、そこから伊豆箱根鉄道の電車で終点の修善寺駅まで行きました。修善寺は大雨でした。駅からタクシー3台に分乗して、修善寺ハリストス正教会に向かいました。
 昨年はゼミ合宿の帰りに、たまたま訪れたのですが、閉まっていたので、今年は修善寺町役場に問い合わせて、地元の信徒の方で世話人のような役をなさっている方に事前に連絡をとり、21日にミサが行われることをお伺いして訪ねたので、ミサに参加させていただくことができました。世話人の方や、司祭の奥様にご親切にしていただき、貴重なものを見せていただいたり、いろいろ説明をしていただきました。
 とくに聖障(иконостас)は、日露戦争の旅順(Порт-Артур)陥落のときまで旅順の教会にあったものだそうで、ロシア軍撤退のときに日本側が譲り受け、お茶の水ニコライ堂のニコライ大司教がいったん預かっていたものを、修善寺の教会が建てられるときに譲り受けたといういわくのあるものだそうです。いくつかのイコンは山下りんの作品だそうです。教会に行ったときはすごい雨だったので、教会の外観の写真を撮ることができませんでしたので、静岡県のホームページに使用されていた写真(*1)を掲載させていただきました。聖障の写真はlectureページのゼミ合宿資料「ゼミ合宿で訪ねる修善寺・戸田史跡ガイド」に掲載しました(*2)。
 (*1)(*2)このDiary執筆当時の静岡県のホームページへのリンク、および当時作成したゼミ合宿資料「ゼミ合宿で訪ねる修善寺・戸田史跡ガイド」に掲載した観光協会等のリンクは、その後、リンク切れとなったため、写真は、2012年9月に私が撮影したものをあらためて掲載しなおしました。また、聖障の写真については、日本正教会ホームページの該当ページをご覧ください。

 さて、大雨の中を修善寺ハリストス正教会をあとにして、昼食は昨年も立ち寄ったおそばやさんでとりました。生わさびを自分ですり下ろし、手打ちそばにかけて、いただきます。
 修善寺から戸田まではバスで山越えです。激しい風雨の中での険しい山越えは、少しスリルがありましたが、無事、予定時刻の14時頃に戸田に到着し、バス停からは、旅館の出迎えの車にのせていただいて、旅館に到着しました。旅館に到着して、それぞれの部屋で少し休憩してから、集合し、今後のスケジュールについて確認、そしてまずは、戸田についての勉強をしました。
 1854年から55年にかけての日露和親条約(下田条約)の締結交渉に際して、1854年12月23日(嘉永7年11月4日)推定マグニチュード8.4という「安政の東海大地震」(翌年の「安政の大地震」とは別)があり、津波のために下田に停泊中のロシア船ディアナ号が損傷を受け、戸田で修理をすることになり、駿河湾を曳航中、こんどはシケのためについに沈没してしまいました。現在の富士市の沖合で沈没したため、沿岸の村人が、自分たちも地震の被害を受けていたのにもかかわらず、暴風雨の中、ロシア人使節一行の救助に大活躍したそうです。そこで、戸田では、修理ではなく、代船を建造することになりました。日本で初めての西洋式帆船の造船です。そして、その間、ロシア使節プチャーチン一行は、戸田村に滞在することになりました。それまで鎖国のため外国人の訪れたことのない人口3000人ほどの村に、500人ものロシア使節一行が滞在するという、前代未聞の出来事が起こったわけです。完成した代船はヘダ号と名付けられ、条約締結後の1855年5月8日、プチャーチンはこのヘダ号に乗って帰国の途についたのでした。つまり戸田は日露友好発祥の地とも言うべき場所なのです。この経緯の詳細はLectureページの「ヘダ号建造の経緯」(PDFファイル)を見てください。また、このエピソードにちなむ史資料は、戸田村立造船資料博物館(*3)に展示されています。
 (*3)2005年4月1日に戸田村が沼津市に編入されたことにより、沼津市戸田造船郷土資料博物館と改称されました。

 戸田村のことについて勉強したあと、海の幸が盛りだくさんの夕食をいただき、20時くらいから2時間ほど勉強をしました。ゼミ合宿での勉強は、ゼミ論の中間報告をして質疑応答・討議をするというものです。1日目の夜は3年生の2名が報告しました。小生は、その夜はお茶を飲みながら、報告をしてくれた3年生と、4年生と3人で午前3時頃まで語りあかしました。深夜、報告してくれた3年生の話を聞きながら、小生は、厳しく言い過ぎてしまったことを深く反省することになりました。このときほど指導の難しさを痛感したことはありません。
 明け方までに風雨は収まり、22日は天気が多少回復してきました。しかし、途中参加の学生を出迎えがてら昼食のために外出した他は、9時過ぎから22時頃まで、一日中、勉強です。参加した学生が5人だった昨年に比べて、今年は勉強の時間が倍以上です。また、3月に卒業して自動車メーカーに就職したOGがロシアの自動車産業のことと、現在の会社での自分の仕事について話をしてくれたのですが、就職を控えた学生には、とてもよい話だったと思います。忙しい中、有給休暇をとって手弁当で参加してくれたことをとてもうれしく思います。
 しかし、長時間、みんなよくがんばりました。さらに驚くべきは、オブザーバー参加の非ゼミ員の参加者が、ずっと勉強につきあってくれたことです。
 22時過ぎから、楽しみにしていた打ち上げです。お昼を食べに外出したときに、コンビニで買い込んだ飲み物やお菓子などを食べながら、語り明かしました。小生が寝たのは、もう外が明るくなった午前5時頃でした。
 最終日の22日は快晴。村立造船資料博物館を見学しました。博物館は岬の突端にあるので、その途中の海の景色がとても綺麗でした。帰りは、磯辺でのんびりしました。水が澄んでいて泳いでいる魚が見えます。そのあと、プチャーチンの宿舎だった宝泉寺に立ち寄って、プチャーチンの滞在した部屋を見学し、ヘダ号建造中に亡くなったロシア人水兵のお墓にお参りしました。
 昼食をとってから、高速船で沼津へ行き、帰途につきました。みなさん、お疲れさまでした。
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2003-09-09 お酒の話
 昨日のレストランの話で Валтика のことを書きましたが、まだ日本では知名度の低いこのビール、今やヨーロッパではハイネケンに次ぐ第2位の生産量を誇るブランドです。ロシアのビールで一番おいしいというわけではないかも知れませんが(人には好みがあるし、Валтика は、さっぱりタイプから、こってり味まで、あるいは黒ビールなど、いろいろな味のビールを製造しているので)、かなりおいしいビールであることは間違いありませんから、欧州第2の生産量も頷けます。
 それにもかかわらず、ビール好きの多い日本であまり売られていないのはなぜでしょうか。日本のビジネスはロシアが絡むと消極的すぎるのではないかな、と思っていた矢先、これも昨日のこと、小生の地元(東京の田舎)の酒屋で、ロシアならぬ、グルジアのワインを見つけました。銘柄は、ありがちな「サペラヴィ」と「ムクザニ」です。グルジア・ワインが日本でも以前からあるところにはあるのは知っていましたが(例えば、Googleなどの検索窓に「グルジア・ワイン」と打ち込んで検索をかければ、すぐに何軒かのグルジア・ワイン専門店がヒットします。Yahoo!では1軒)、こんな東京郊外の普通の酒屋に出回るようになったとは! どちらも1本1,380円、もちろん両方とも買って帰りました。ちなみに、あの、「キンズマラウリ」や「フバンチカラ」も置いてくれないかなぁと思ったのは、この酒屋さんに出入りしている人の中ではおそらく小生だけかも知れませんね。
 モスクワにいたときは、グルジア人の友人が、いつもとびきりおいしいワインをケースで届けてくれて、よく飲みもしたし、洋ナシのワイン蒸しなどの料理にも丸ごと1本使ったりして、なんだか今考えると贅沢だったなぁ、と思います。
 東京では、あのおいしいグルジア・ワインがなかなか手に入らないと思うと、トホホっていうか、ちょっぴりさみしいですね。
 そういえば、件(くだん)の酒屋さん、ロシア・ウオッカも何種類か置いているのですが、日本ではソ連時代からの馴染みの銘柄の Московская(モスクワ)、Столичная(キャピタル=首都)、Кубанская(クバン=コサックで有名なクラスノダール地方の地名)、Охотничья(猟師=木の実や茸?の香りと味がついて琥珀色)、Лимоная(レモン=その名の通りレモンの香りと味でレモン色)、Перецовка(とうがらし=その名の通り赤くて辛い)が置かれていました。いつもこれら全部が並んでいるわけではないんですが、こんな片田舎のお店にしてはある方なんでしょうね。もちろん、ロシア・ウオッカよりもメジャーなスミノフも青赤ともに置いていますが。
 でも、ソ連崩壊後に登場してきた(復活した?)Гжелка(手頃な値段で美味)や昨日の話に出てきた Русский стандарт(ちょっと高いとは思いますが)とかの、おいしい銘柄を置いて欲しいですね。
 ワインについて蘊蓄のある人はたくさんいるでしょうし、小生はワインが好きとはいえ、本場のフランス・ワインなど滅多に飲まないので、あれこれ語るほどの知識も経験も乏しいと思いますが、ハンガリーの貴腐ワインTokaji Azsu(トカイ・アスー)は絶対おいしいですよね。このワインは、グルジア・ワインとは違って、デパ地下などでもよく見かけますが、貴腐ブドウの比率の違いから、5プットニョス(ブドウを入れる籠=カゴという意味らしい)、4プットニョスがあって(3プットニョスもあるかも知れません)、5の方がおいしいけど、ちょっと値段が高めです。それでも、ちょっと小さめの500ml瓶でデパ地下で2千数百円といったところですから安いと思います。
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2003-09-08 六本木のロシアン・レストラン
 少し前に今春の卒業生2人と六本木のロシアン・レストラン Байкал(バイカル)に行きました。2人のうちの一人がロシア相手の商社に就職し、仕事の関係で紹介されたレストランだとのこと。この店、はっきり言って、かなりキテいます。店のつくりのチープさは、たとえばモスクワの Ёлкипалки(ヨールキ・パールキ=もともとの意味は「悪魔に食われろ」。こんちくしょう、とかいう感じなんでしょうか、そんな意味の名前の若者向けのレストラン・チェーン)みたいだし、メニューも味も日本人の好みや嗜好に合わせようといった心がけの微塵もない、完璧なロシア風。
 そもそも、店員も客もほとんどロシア人ばかり。我々以外の日本人は一人だけで、ロシア人とのカップルでした。この日本人はお馴染みさんのようで、あとからやってきたロシア人の子ども連れの女性に、流ちょうなロシア語で、やあ、お久しぶりですぅ、みたいに声をかけていました。日本人だけのグループは我々だけ。音楽はこれもロシアの大衆的な店にありがちなラジオ放送(もちろんロシアの)。そのうちロシア人の若者のグループがカラオケを始めました。もちろんロシアのカラオケです。彼らのうちの一人がトイレに行こうと席を立ってその帰りがけに我々のテーブルの横を通りかかったときに、これまた流ちょうな日本語で「おじゃまじゃありませんか?」と、自分たちがカラオケで騒いでいることに我々が迷惑していないか気を遣うというのは、さすが異国の地でビジネス(?)に励むいまどきのニューロシアンの気質を感じさせます。「いいえ、我々も楽しんでいます」。
 おいてあるウオッカは、当然、Русский стандарт(ルースキー・スタンダールト)、そしてメニューにビールがないのに、なぜか Валтика(バルチカ)を飲んでる人がいるのもロシア的。小生が селёдка(にしん)と огурцы(きゅうり)を肴に冷凍庫から出したばかりの Русский стандартを飲んだのは言うまでもありません。3人で Советское шампанское(ソビエト・シャンパン)と Русский стандартのボトルを1本ずつあけてしまいました。
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2003-08-08 ホームページデザイン変更!
 ウエッブ・ユーザビリティっていう言葉があって、誰にでも使いやすいホームページをつくりましょうっていうことらしい。そういうことが書いてある本をふと立ち読みしたら、なかなかためになることが書いてあるようなので、買って拾い読みをしました。ウエッブ・ユーザビリティの観点からすると、画面をフレームに分けるのはよくないとか、いろんなユーザに配慮したホームページをつくらないといけないということが理解できました。そこで、フレームをやめて目次ページを画面上にまとめてみました。色もモノトーン調にして、よりシンプルにしました。夏休みになって、多少時間の余裕ができたので、デザイン変更を試みたのですが、前よりも見やすくなったのではないかと思います。
 あと、Lecture のページで、すぐに必要な授業のレジメにアクセスできるようにしました。しかも、見やすくなったのではないでしょうか。それと Gellery の写真を一新しました。スキャナーの使い方をちゃんと勉強して、より綺麗にスキャンできるようになりました。それと、当然ですが、新しいネガからの方が綺麗に出ますね。でも、アナログ・プリントのときは綺麗な写真なのにスキャニングするとそうでもないっていう写真がありますね。やはり、ホームページ上で見ようとする写真はすっきりしていてコントラストがはっきりしている写真がいいみたいですね。しかし、スキャナーでネガからスキャンするのは思っていたよりずっと時間がかかって面倒なので、やはりデジタルカメラを買った方がいいのかなぁ、と思っています。
 でも、あまり買いたいデジタルカメラがないんですよね。それに10数年間愛用してきたニコンのカメラとレンズに愛着もあるし・・・・。
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2003-07-06 まもなく前期終了!
 7月4日(金)になんと、学科の学生が、小生ともう一人の学科の教員の誕生日のお祝いの食事会をやってくれました。その食事会は四谷駅近くのカフェ・レストランを貸し切って開かれました。違う学年が一堂に会するという趣旨もありましたが、むろん全員が集まったわけではありませんが、それでもかなりたくさんの学生さんたちが集まってくれました。花束やろうそくの立ったケーキまであって、準備も大変だったろうと思います。ありがとうございました。
 まもなく前期も終了しますし、ということは、まもなく試験もあるわけですが、まあ、その前のつかの間の息抜きということになるのでしょうか。食事会のときに、小生の「ロシア・東欧の法と社会」をとっている学生が、3年生になってきてようやく小生の授業が、というよりも学問というものが、わかってきたと言っていました。学問というもののすごさ、おもしろさが、わかってきたというのです。1年生のときには、小生の推測ですが、わからなかったか、つまらなかったかのどちらかだったのかも知れません。
 ビデオ教材などを使って退屈しないように授業をするということもいろいろ試みてはいるのですが、小生の授業は、語学の授業とゼミ以外は、どうしてもいわゆる普通の講義が中心になってしまいます。いろいろ工夫をしてはいるのですが、正直言って、授業の準備に十分な時間をかけることがなかなかできなくって、どうしても紙の資料を中心にした講義になってしまいます。ですから、ロシアについて、社会科学系の学問分野から考えてみるということに関心が薄いと、ちょっととっつきにくいと感じてしまったり、単調だと感じて眠くなったりという可能性もあります。
 そんななかで、学問のおもしろさがわかってきたというこの学生は、社会科学系のことにも関心のある比較的熱心で優秀な学生なのだと思いますが、その話を聞いて、よかったと思う反面、1年生のうちに、そういうことに気づかせるにはどうしたらいいのか、と考えさせられました。
 今年度も、もう前期終了まぎわですが、小生の2年サイクルで組まれているいくつかの授業の場合は2年目の中間点で、あと4分の1を残すのみとなったところとも言えます。実はこの2年サイクルの授業の内容は、2002年から大幅に変えてスタートしたものです。講義の「ロシア・ソビエト政治・外交」と、ゼミの「ロシア・ソビエト政治・外交演習」というのは、2001年までは、「ロシア・ソビエト政治」と「ロシア・ソビエト外交」という別々の講義科目だったのです。それをゼミの必要性を感じて、ゼミの時間を作り出すために、2つの講義を1つにまとめて、あいたコマをゼミにあてたのです。つまり、講義の時間は半分になったわけですが、それにもかかわらず講義の内容を減らしたくなかったので、いわば濃縮度を高めて講義することにしたのですが、やはりこれは、かなり難しいということがわかってきました。
 1年生向けの「ロシア地域研究入門」、2年生向けの「ロシア地域研究方法論」、2~4年生向けの「ロシア・ソビエト政治・外交」という3つの講義の内容についてもう一度整理し直して、重複を避けながら、必要だと考えられる内容をうまく各講義に配分していくことを考えなければなりません。
 あと、授業科目名のなかにある「ロシア・ソビエト」の「ソビエト」が必要なのかどうか、「政治・外交」というくくり方でよいのかということも考え直さなければなりません。
 「ロシア・ソビエト政治・外交I」→「ロシア政治」、「ロシア・ソビエト政治・外交II」→「ロシア外交」と変えて、「政治」と「外交」を隔年でやるというのもあり得るでしょうが、1年生向けの「入門」で、「外交」についてもっと教えるとか、考えなければならないことはたくさんありそうです。
 また、今年は、「法と社会」を、初めていわばピンチヒッター的にやったのですが、今この「法と社会」で教えている内容のうちかなりの部分は、かつて「ロシア・ソビエト政治」という授業で、政治について、現在と比べて2倍の時間をかけて教えることができたときに教えていた内容をかなり含んでいて、それに法学の基礎の内容(とくに立憲主義とか憲法とは何か、権利とは何か、といったことがら)を加えたものですが、教えていて、こういうことは、やはり教えた方がいいと考えるようになりました。
 考えなければならないことはたくさんあります。
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2003-06-29 ロマノフ王朝展、学生とのやりとりなど
 6月中旬にロマノフ王朝展を見に行きましたが、そのことについて何か書こうと思いつつ、忙しさに紛れて、今日に至りました。ロマノフ王朝展に行ってまず最初に思ったのは、もっと早く来るべきだった、ということです。雨の降る平日の午前10時40分頃に都美術館に着いたのですが、もうかなり混み始めていて、見ているうちにどんどん混んできたのです。小生の以前の勤務先の研究助手さんは、なんとインターネットで初日だけ有効の無料券をゲットして見に行ったということでしたが、すいていて見やすかったとのことです。無料券ゲットはさすがだと思いますが、それはともかく、早めに行っておけば、もう少しすいていたのかなあと思いました。
 展示の内容ですが、もちろんイコンであれ、陶磁器であれ、小生はロシアのものは見慣れているので、ロシアに行ったことのない人に比べればこの展覧会で見たときの感動は小さいのですが、やはり一般の方たちにはとてもよかったのではないかと思います。個人的にはニコライ2世の皇太子のときの訪日関係の展示に興味がありました。大津事件で被害にあったことで日本嫌いになり日露戦争開戦の遠因になったという俗説を覆すには彼の日記を見るのがいちばんいいのですが、この展覧会では旅行中の家族とのあいだの手紙や、京都などで立ち寄ったレストランのメニューなど、小生の知らなかったものも展示されていました。
 ちなみに彼の日記については、保田孝一『最後の皇帝ニコライ2世の日記』(朝日新聞社、1990年)を読みましょう。
 ロマノフ王朝展ですから、展示の中心がロマノフ王朝のことについてなのは当然ですが、イコンをはじめロシア正教についての展示が多かったですね。ミサの様子を映したビデオが流されていましたが、ロシア正教のミサなどを見たことのない人には珍しいものだったと思います。
 日頃から思っているのですが、日本ではキリスト教といえば、カトリックかプロテスタントで、これでほとんどすべてという感じですが、これはキリスト教の半分だけです。ローマ帝国が東西に分裂したあと、東ローマ帝国や、南欧やロシアなどで信仰されていた東方教会についての情報が日本では圧倒的に少ないですよね。あの絢爛豪華な儀式、そして何よりも、神が与えたもうた最も美しい音色を奏でる楽器は人の声だという教えに従って、教会では鐘以外のいっさいの楽器を演奏せずに歌はすべてアカペラで唱われ、まずは美声の持ち主であることがロシア正教会の司祭などの条件らしいので、司祭の方たちの声が美しいことなどなど、ビデオで見ることができます。

 話は変わります。就職や進学で、学生さんたちは、いろいろ悩み考えています。そんなとき、適切なアドバイスをしてあげられればいいのだけれど、せいぜいできるのは聞き役なのかなぁと思いつつ、最近、メールである学生さんとやりとりしたことを、このページで小生の部分だけ載せることにしました。この学生さんは受験のときから将来の就職先として国際公務員を考えていたらしいのですが、来年の留学を前にしていろいろ考えるところがあるようです。
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  留学すること自体、何かの準備のはずですから、留学前に自分の将来のことについてあれこれと考えておくことは、留学をより一層充実したものとすることにつながると思います。時間はたっぷりありますので、バスに乗り遅れるという感じで、あわてることはありません。あなたの入試の面接のときのことをよく覚えています。確かそのときに国際公務員とか、国際的仕事につきたいとか、仰っていましたよね。
 もちろんそのような希望を持って入学してくる受験生は少なくありませんが、あなたは、その後の勉強ぶりもしっかりしているので、その道に少しずつ近づいてきたことは確かだと思います。でも、誰もすんなりと行くものではありません。あなたは国際公務員という職業の名称に、「国際」という言葉があったので国際関係の授業をとったのでしょうか。
 ところで、国際関係論は、国際関係を考える場合の概念、アプローチ、分析の方法など、いわゆる理論的枠組みについて勉強するものです。ですから、どちらかというと理論的な学問ですね。一方、国際関係史は、例えば第二次世界大戦とか、湾岸戦争とかキューバ事件とかといった二国間ないし多国間が関係する具体的な歴史的事象について勉強するものです。また、地域研究は、特定の国家あるいは地域の文化、伝統、歴史、現状について学ぶことを通じて、その国家ないし地域についての深い理解を目指します。
 小生は、政治学、政治史、制度史といったアプローチを中心にして、ロシアという特定の国家ないし地域についての深い理解を目指しています。つまり地域研究をしています。国際関係論の中で研究されてきたさまざまな理論的枠組みに教えられることも少なくはないのですが、小生は、国際関係のアクターである国家やある特定の地域の人々について、あるいはある特定の国家や人々の集団の歴史性、個別性、固有性、よりミクロな、あるいは歴史的な研究が異文化理解ひいては国際関係の理解に役立つものではないかと感じています。
 さて、あなたが国際公務員を目指して勉強しはじめたところ、国際関係論もさることながら、ロシアあるいは旧ソ連地域のことについて興味があるというのは、ロシア語学科の学生として当然のことだと思います。そもそも、国際公務員あるいは国際的仕事をするには、ある特定の国家や地域の人々に対する具体的な知識や関心があって、その仕事に取り組もうとすることも多いのではないでしょうか。国際的な仕事と言っても、何か宙に浮いたような仕事をするのではありません。もちろん国際法や国際機関(国連とかWTOとか)についての知識は必要ですが、国際的な仕事をする場合に必要なのは、他者(外国、異文化)への思いやり、つまり他者(外国、異文化)に対する深い理解なのです。
 国際公務員は資格に修士以上を求めているので、国際公務員を目指す以上、大学院に進学する必要がありますが、なぜ国際公務員は修士を求めているのでしょうか。修士号の取得には修士論文を書かなければなりません。修士論文は、というか論文というものは、ある特定のテーマについて、文献を読んだりフィールド調査をして集めた材料を分析し、深く考察し、仮説、論証、結論という構成を持ち、記述が明確で論理的で読みやすい文章として書き上げたものです。こうした論文を書く能力がないと国際公務員は務まらないということなのでしょう。
 研究とは、最終的には論文や、プレゼンテーションのコンテンツを作り上げていく作業ですが、学者と、実務に携わる人とでは、その深さや徹底度において程度の差があるかも知れませんが、いずれもこうした作業はするものです。何について修論を書くのか、つまり何について問題意識があるのか、興味があるのか、疑問を持っているのか、こうしたことがないと、論文は書けません。大学院に進学しても悩むことになります。一般に従来、文化系の大学院への進学は研究者を目指すことを意味していました。現在でも基本的にはそうだと思います。
 研究者になるための最も重要な資質は、現在では、一人前の研究者として自立していけるまでに非常に長い時間がかかるので(一般的に言って10年くらい)、かりに経済的困難や孤独、周囲の無理解といった苦しい状況になっても、特定のテーマをそれだけ長い期間追いかけていくことができるだけの強靱な精神力を持っていることだと思います。その強靱な精神力はどこから生まれるのかといえば、「このことだけについては誰にも負けないぞ」という自信や、「なぜなんだ? このことがわかるまでは絶対にやめないぞ」といった強烈な問題意識からだと思います。
 国際公務員になるために進学することは、これとは少し違います。所属する大学院の専攻分野でより深い知識を獲得するとともに、特定のテーマについて、2年間という限られた期間で手際よく修士論文(つまり本格的な論文というよりも習作)をまとめる能力を身につけることです。そしてさらに、その2年間のあいだに国際公務員になるための準備をしなければなりません。
 ロシアについて、旧ソ連地域について関心があるといっても、どういう観点からの関心なのかということで、就職先も違ってきます。デスクワークというよりも現地でフィールドワークや実務がしたいというのであれば、特定の技術・知識・経験を持っている必要があります。理科系は別とすると、ビジネス、経営、セールスの経験、金融機関での勤務経験、中高校教員や日本語教育などの経験を積んだ上で、当該地域で働くということになります。日本でのデスクワークが中心で、ときどき出張したり、一定期間の現地駐在という場合は、市場調査や貿易関連の調査ということならたとえばジェトロやロシア東欧貿易会、文化交流ならたとえば国際交流基金、中央アジアやザカフカージエに対する途上国援助・経済開発・投資ということなら、たとえばJICAあるいは国際協力銀行などの国際金融機関ということになるのではないでしょうか。
 経済であれ政治であれ、実務というよりも調査研究ということをしたいのなら、大学院の博士課程まで進学して、大学教員ないしは研究機関の研究員を目指すことになります。この場合、現地駐在と言うよりも留学や現地調査で現地との関わりを持つことになるのではないでしょうか。
 いろいろなことを書きました。こんど、じっくりと話しましょう。書いていて思ったのですが、このメールの小生の書いた部分をHPに載せようかなと思います。あなたに向けて書いていたのですが、一般的な問題だなと思いましたので。
 では、また。
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2003-06-01 就職懇談会
 5月28日(水)17:30~19:30、上智大学ロシア語学科OG/OBが就活を控えた3年生向けに、就活の苦労話や経験、また就職して2カ月ほどたった時点での仕事についての思いなどを語ってくれる就職懇談会が行われました。仕事の忙しい中、参加してくれたOG/OBは、全部で8人、出席した3年生は40人以上でした。最初に、OG/OBが、それぞれ自己紹介・仕事の内容などについて話してくれたあと、各人の就活の経験談をいろいろレクチャーしてくれました。3年生の中には、熱心にメモを取りながら聞いている人もずいぶんいました。
 ひととおりレクチャーが終わったあと、OG/OBひとりずつ別れていただいて、3年生が適宜グループごとにOG/OBを囲んで質疑応答などを行うフリートーキングを行いました。予定を30分オーバーするほどの熱心な質疑応答が行われました。
 そのあと、3年生が企画してくれた食事会が四ッ谷駅近くのレストランで行われ、そこから合流したOG/OBと教員を含めて、楽しく有意義な時間を過ごしました。
 ロシア語学科には同窓会もありますが、同窓会には現役の学生は参加しないので、現役の学生と卒業後間もない現役生と年齢の近いOG/OBが接触することになったこの機会はなかなか有意義で貴重だと思いました。とくに3年生のみんなには、とても参考になったのではないかと思います。ただ、会社訪問など具体的な就活を開始した時期が比較的遅かった先輩が多かったのですが、その例に安心せず、3年生のみんなは、情報収集などを含めて、なるべく早めに就活を開始するようにしてほしいと思います。
 2次会までおつきあいしてくれたOG/OBのなかに都心に新規開業したホテルに就職した方がいて、その方の苦労話をいろいろ聞きました。本当に大変だなぁと思いましたが、そんな話をしながらも、もうすっかりちゃんとした社会人になっている様子に、感心しました。学生のときから、しっかりしていたのかも知れませんが、やはり学生のときとは雰囲気が違うんですね。
 その方と話しているとき、ふと、自分の教え子が、大学を卒業したあと、仕事の大変さのなかで、自信を失いかけたり、迷いを感じたりしているときに久しぶりに会った大学の教師は、どんなことを話したらいいのだろうと、考えました。そういうときに自分はたいした役には立ちそうもないなぁと思いながら、思えば、結局、少しだけ長く人生を経験しているということだけなのだと思いました。いつも思うのですが、教師といっても、大したことは教えられないものです。自分の専門以外のところでは、せいぜい話し相手になるっていう程度のことしかできないんですが、それでも、そういう時間を比較的多めに持っているのが教師だということなのでしょう。
 ところで、2003-03-21のDiaryで新入生向けに次のようなことを書きました。
 「大学って実は通過点に過ぎないんですよね。ということは、大学を卒業したあとにも『何か』があるんです。ですから、大学は、その『何か』のための準備をするところなんです。つまり、大学での学問はその『何か』のための準備として行われなければなりません。この『何か』とは、多くの場合、就職や進学です。大学の学生は、『大学を卒業したあとどうするか』を考えて学問をしなければなりません」。
 確かに大学は学問をするところですが、多くの学生が就職をして社会人となっていくということを考えると、社会からかけ離れた学問ではなく、つねに社会の中で自分はどうあるべきか、ということを考えながら学問する必要性があると思います。ロシア語学科の学生で、ロシア語がよくできる学生に限って、ときどきいわば世間離れしている学生がいるのですが、研究の道に進むのならば別ですが、就職することを考えているのなら、せっかく学んだロシア語をどのように活かしていくのかと考えることが大切ではないかと思います。世の中にはいろいろな仕事があって、会社もたくさんあります。テレビなどでCMをやっている会社だけが会社なのではありません。公務員や企業のこと、いろいろ調べて、どういう風に生きていこうかと考えることが大事だと思います。
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2003-05-18 最近行われた就職説明会と、これから行われる就職懇談会について
 5月14日(水)17:00~18:30、某メーカーに勤務している上智大学ロシア語学科OBが4年次生向けに就職説明会をして下さいました。このメーカーは、ロシアともそこそこ取引がある会社です。1990年に卒業したこのOBの方は、一般的なセールスの経験を積んだあと、短期間のロシア語現地研修を経て、その後はロシア担当となり、このメーカーが100%出資して創設した現地法人の社長(社長だけが日本人だそうです)を務めるなどして、昨年帰国したとのこと。バリバリの若手ビジネスマンという感じです。
 このOBの方は、人事担当者から、ロシア語学科から優秀なのを1名連れてこいと言われて、この説明会を開くことを思いついたそうですが、小生が連絡をいただいたとき、たまたま「イコンの会」の忘年会で昨年お会いしていることもあって、就職難の折り柄、ありがたいことと思い、さっそく就職説明会を開催しました。
 もうすでに就職が決まっている学生もいたり、必修授業での連絡という方法をとらざるを得なかったために4年次生への連絡が完全ではなかったこともあって、当日、説明会に集まったのは、男子学生1名、女子学生3名の合計4名でしたが、それだけに全員やる気まんまんで、OBの話を聞いていました。
 OBはPowerPointを使って作成したプレゼン資料をプロジェクタで映しながら、丁寧に会社の概要の説明、ロシアとの取引や仕事の仕方などについて説明してくださり、小生も大変勉強になりました。この4名の中から必ずや1名採用していただけるものと期待していますが、他方で、教員の立場からすると、いずれもよい学生なので、そのうち3名は落とされてしまうという現実にあらためて就職の厳しさを感じました。
 ところで、こんどは3年次生向けに、5月28日(水)17:30~19:00、この3月に卒業したばかりのOG/OBの方が就活体験談や、就職して2カ月近くたった現在の思いなどを、話しに来てくださいます。それぞれの上司の方へのお願いの手紙を同封した呼びかけの手紙を現住所のわかる範囲で卒業生の方に郵送しましたが、正直言って、就職したばかりで忙しい中、どのくらいの卒業生が応じてくれるかまったく見当がつきませんでした。しかし、現在までに、すでに5名の方から出席の返事、さらに1名は職場が遠いため遅れるかもという返事、また1名は上司出張中につき返事をもう少し待って下さいといったお返事をいただいています。ほんとうにありがたいことです。5月28日は、これに合わせて3年次生もコンパを企画するなど、就活に向けて出陣式といった感じになってきましたが、小生は久々に卒業生に会えるのが楽しみです。
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2003-04-13 「生と会」の仲間
 プロフィールのページには書いてありませんが、私の出身中学は、東京都調布市立調布中学校です。私が中学3年のときには1年が11組、2年と3年が10組まである全校生徒1000人以上の大規模校でしたが、生徒会活動がさかんで、生徒の自主性が尊重されている素晴らしい学校でした。私は1年のときから生徒会役員になって新聞づくりをやったりしていました。最近、当時の仲間が再会しています。というのも、私より2年下のあゆみさんが、熱心に当時の仲間を捜して、集まろうと呼びかけ、2年ほど前に実に32年ぶりぐらいに何人かが集まりました。昨日(4月12日)、2度めの集まりがありました。といっても、いろいろ忙しい人が多く集まったのは5人でした。34年ぶりですから、お互い年齢を重ねているわけですが、中学時代の面影もあり、話せば昔の調子が戻ってくるのが面白い。
 あゆみさんは小学校(調布市立第3小学校)も後輩で、確かに小学校4年生の彼女のことをかすかに覚えているような気がします。彼女が言うには、私の新聞づくりを真似ようとしたけれど、とてもできなかったというのです。確かに毎日毎日ガリ版の上で鉄筆を走らせ、最初の頃は謄写版で、やがて手動の輪転機で新聞を毎週印刷していました。とにかく生徒数1000人を超す大規模校ですから印刷も大量でしたが輪転機のおかげで可能になったのだと思います。「しかし毎週毎週、何を書いていたんだろうね」と、思い出そうとしても、思い出せません。B4ワラ半紙を2つ折りにして4頁だてにしていたことを覚えていますから、ずいぶん書くことがあったのでしょうが、いったい何を書いていたのでしょう。いろいろな委員会の議事や行事の準備のことなどを書いていたのでしょうが、あゆみさんの言によると、「夢中になって読みました」というから、それなりに面白かったのでしょう。で、新聞のタイトルが「広報 生と会」だったと記憶しているのですが、この記憶は、昨日、あゆみさんと話していて、甦ったものです。「生徒会」ではなく、「生と会」としていたのは遊び心だったのでしょうが、当時は、そこに何か意味を込めていたのでしょうか。市議会議員になっちゃってる人もいて(来週、投票日だそうなので、がんばってください)、みんなの今の仕事はいろいろですが、当時、元気だった通称あねさんは、いまでもいちばん忙しくしていて、電話で参加しただけでした。しかし、私は中学校の同窓会自体に一度も出たことがないし、そんなものがあるのかも知らないのだけれど、生徒会の仲間が集まるというのも、思えば、すごいなぁ、と思います。ひとえにあゆみさんの熱意のたまものですが。
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2003-04-01 新入生のみなさんへ
 入学式と学科別集会はどうでしたか。 そろそろ情報過多になりつつあるんじゃないかな。 分厚い履修要覧と講義要項や何頁もある時間割に驚いているのではないでしょうか。とりあえずは「2003年度新入生オリエンテーション」と表紙に書いてあるピンク色(というか微妙な色ですが)の8頁のパンフレットをよく読んで、オリエンテーション週間の諸行事の全容を把握して、いろいろな行事や手続きなどを忘れずにこなしていきましょう。それから、学科便覧を読んでロシア語学科の概要を把握してください。オリエンテーション・キャンプのためにヘルパーさんたちがつくってくれた、青空を背景に色彩豊かなロシア正教会が建っている写真が表紙になっている、ロシア語学科オリジナルのオリキャン・パンフは、気楽に読めるお楽しみパンフですので、オリキャンまでのあいだに息抜きに読んでおいて下さい。
 履修要覧や講義要項、時間割などは、4月4日(金)のガイダンスのときに説明があって、さらにオリキャンのときにロシア語学科の履修について、具体的に説明しますから、だんだんわかってくると思います。
 「自殺」の話をした教員がいましたけど、正直言って、場違いな話のような気がして、ちょっと困ったなぁと思いました。話してくれた教員の念頭にある自殺した学生は、実は、勉強のことや友人関係のことが原因で自殺したのではなくて、不治の病といわれる、ある病気で悩んでいたことが原因で死を選んだのではないかと思います。もちろん自殺した本当の理由は他人にはわかりません。私もよく知っている学生で、飲み会などでもよく話しました。最近やっている勉強のことや、最近読んだ本のことなど、いろいろ話してくれました。病気のことで悩んでいることは知っていましたが、突然の死は、とてもショックでした。教えたことのある学生が自殺するというのは私には初めての経験でした。悲しかったです。
 こういうことは、滅多にあることではありません。滅多にあってほしくないです。もちろん、10,000人以上の学生が学び、1,000人以上もの教職員が働いている大学は、当然ながら社会の縮図です。たまには「事件」が起こります。でも、自殺なんて滅多にあるものではありません。多くの学生や教職員は、普通の生活を元気に過ごしています。せっかく、今年は日本でロシアがブレイクするかも知れないと、いま日本でも世界中でもその曲が大ヒットしているロシア人の女の子のデュオ、t.A.T.u. のことやロシア人の「いいとも青年隊」の話をしたのに、ちょっと暗くなっちゃったなぁ、と思いました。あの先生が本当に言いたかったことは、困ったことがあったら相談に来てください、っていうことだと思いますが(その話だけだったらよかったのに・・・)、それはそのとおりです。私たちは、いつでも学生さんが話しに来てくれるのを待っています。 ちろん、こちらからも話しかけますけどね。
 ところで、t.A.T.u. を試聴したい方は、こちらにアクセスするとよいでしょう。
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2003-04-01 入学式!
 今日は入学式。 ロシア語学科の新入生は、今年はなんと68人もいます。 全部名前を覚えられるかなぁ、と今から心配しています。学生さんの人数が多いせいか、ご家族の方の人数も多かったように思いました。
 入学式は、今日の午前中、有楽町の東京フォーラムで行われましたが、そのあと大学への移動中、中央線の車窓から見た飯田橋付近のお堀端の桜はとても綺麗でした。大学の近くの土手の桜もとても綺麗です。21時頃、大学正門を出たのですが土手は夜桜の花見の宴会で賑やかでした。四ッ谷の大学前のお堀はずっと昔に埋め立てられてしまい、今は上智のグラウンドになっていて、水面(みなも)に映る桜を愛(め)でることができないのが残念です。
 さて、新入生の皆さんと、学科別集会で会ったには会ったのですが、約1時間、教員紹介やら連絡事項の伝達やらであわただしくこちらが一方的にお話をしただけで、新入生の表情をゆっくり観察している余裕はありませんでした。やはり、新入生とともに泊まりがけで出かけるオリエンテーション・キャンプがあって初めて新入生の学生さんたちを知ることになると思います。教員の立場から言っても、オリキャンは新入生をよく知るためのよい機会だと思います。新入生の方もどきどきわくわくしているんでしょうが、教員の方も、この時期はけっこうわくわくしているものです。
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2003-03-25 卒業式!
 今日、3月25日(火)、上智大学の学位授与式がありました。一般には卒業式といわれるものです。もっとも私は東京フォーラムで行われた学位授与式には臨席しませんでした。もちろん14:00から行われた学科別集会には参加しました。この学科別集会が実質的な卒業式です。
 学科長から一人一人に学位記つまり卒業証書が手渡されました。人によっては副専攻の修了証、あるいは教職の免状を受け取った人もいます。女子学生の多くは振り袖に袴でとても華やかで綺麗です。男子学生はスーツ姿なので、こういうときには女子学生の華やかさにはとうていかないません。
 各教員ひとりずつ卒業生にはなむけの言葉を贈るのですが、私はこういうときにいつも何を言ったらよいのかよくわからなくて、話し終わってから、もっと違うことを言えばよかったのかなぁと思ったりします。あまり気の利いたことが言えなかったといつも思うのですが、だからといって気の利いたことがどんなことなのかもよくわかりません。
 昨日は、学科長が私のことをロシアの内政が専門だと紹介してくれたので、それを受ける意味も含めて、まぁ自分らしさが出ればいいのかなと開き直って、チェチニアの国民投票で投票者の90%以上(実際には95%以上でした)が憲法草案を支持したことなどを前フリにして(ねらいどおりウケましたが)、その話とはちっとも関係ないのですが、与えられた環境に多少の不満はあっても次へのステップだと思って全力を尽くすことが大事だという話をしました。
 学科別集会が終わったあと、教室で何人かの学生さんのご家族の方にご挨拶をうけ、お礼を言われましたが、教師として学生の面倒を見るのは当然のことなので、とても恐縮しました。
 ところで今年の卒業生はオリジナルの卒業アルバムをつくるということで、A4で1枚分程度の文章を何か書いてくださいと頼まれました。それで、どんなアルバムができるのかなと楽しみにしていたのですが、できあがったアルバムを学科別集会のときに初めて見て、これは予想以上に素晴らしいものだなぁとおもいました。でも、アルバムというより文集なんですね。もちろん楽しい写真がたくさん載っているのですが、それとは別に、学生が一人一人書いた卒業を前にしての感想というか思い出というかコメントがとても楽しいし、個性が出ていて、素晴らしいなと思いました。アルバムづくりを担当した学生さんは大変だったと思います。ご苦労様でした。このオリジナル・アルバムは慣例化してもいいなぁと思いました。つくるのは大変ですけどね。
 ちなみにこのアルバムに寄せた私の「贈る言葉」(PDFファイル)をアップしておきますね。この「贈る言葉」は、私の授業を受けていた学生にはいかにも上野っぽいつくりで、ウケたのではないかと思っているんですが・・・・。
 さて、夕刻、私たち教員は謝恩会に招かれました。この謝恩会のときほど、本当に教師になってよかったと思えるときはありません。教員一人一人に対して、それぞれの教員にとくに縁のあった学生がそれぞれ、その教員についての思い出やエピソードををつづった手紙を読んでくれて、その手紙と一緒に記念品を贈ってくださるのですが、本当にこのときに、つくづく自分は教師になってよかったと思うのです。
 私はこのあと3次会までおつきあいできましたが、どうやら何人かの教員は4次会で学生さんたちと夜明かししたのではないでしょうか。学生さんたちとひたすら飲み続けるのは楽しいと思いますが、私は大勢で居酒屋さんなどで飲むのが苦手で、たいていJR中央線の終電(四ッ谷24:15頃)までで失礼してしまいます。ごめんなさい。
 卒業していくみんな! どうもありがとう! 卒業しても、たまには会ってまたいろんな話しようね! うちにも遊びにおいで!
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2003-03-23 まもなく卒業式ですね
 2月末から3月上旬まで体調を崩していました。その間、仕事がいろいろ入っていて、どうしても書かなければいけない原稿や、事務局をあずかっているロシア・東欧学会の事務処理、ホームページの立ち上げの仕事などいろいろあって、自分のホームページのメンテナンスはほとんどできませんでした。
 米軍のイラク攻撃が始まりました。このホームページで米軍のイラク攻撃について私が何も語っていないのは、私がこのホームページをロシア政治研究者として開設しているからです。私はイラクについても米国の対中東政策についても一般の新聞に書かれていること以外のことはほとんど何も知りません。研究者は確かなことがわかっていないことについて伝聞だけで何かを言うことはできません。自分の言論には研究者としての責任を持たなければならないからです。もちろん、人が死んでいくのを見るのはとても悲しいことです。しかし研究は怒り悲しみ好き嫌いといった感情をなるべく排除したところで行われなければなりません。もちろん研究の出発点には問題意識というある種の感情が必要ですが、手続き的客観性を追求しなければならない研究は、感情をなるべく排除していかなければならないと考えています。
 最近、あるシンポジウムで私が同じ分野の研究者の先輩として尊敬しているある人が「研究者は傍観者でなければならない」と語っていたのを聞いて、彼もおそらく私と同じような学生時代・院生時代を送ってきたことで、そういう結論に達したのだろうなと思いました。
 世界の平和、人類の幸福に対して、あるいは自分が生まれ生活している日本と自分の研究対象であるロシアの友好に対して、ささやかなことでもいいから何かをしていこうと思い、そのために政治学を学びロシアの政治を研究し、それを若い学生に語ってきました。私はこれからも研究と教育を通じて、その自分の責務を果たしていこうと思っています。
 ところで、まもなく卒業式です。私が指導してきた院生がこの3月に修士課程を終えるので、19日に、一緒に勉強してきたそのほかの院生と一緒にささやかなお祝い会をしました。そのときに、こんどは私の家でやろうということになって、結局、みんなの都合があう22日に、院生たちがうちに集まりました。さすがに院生ともなると談論風発、2日間を通じて終わることのない議論が続きました。他方、その間をぬって、前から予定していた学部のゼミの追いコンが21日に行われました。学生さんたちが「ゼミ謝恩会」と銘うって1次会は私が招待されるかたちで行われ、しかも記念品までいただくなど、ほんとうに思ってもいなかったことで、とても感激しました。教師としてすべきことができなかったという忸怩たる思いがあるのにもかかわらず、本当にありがたいことだと思います。ゼミは、講義とは違って、学生が報告したり議論したりしなければならないので、教員の役割はかえって難しいものがあります。学生一人一人の関心が違う中で、どのようにゼミを進めていけば、参加者全員がよかったと思えるようなゼミになるのか、これからも試行錯誤が続きます。
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2003-03-21 新入生のみなさんへ:「大学って何?」(「オリエンテーション・キャンプ」パンフレットから)
 いまドキドキしていますか? それともワクワクしていますか? でも少し固い話から始めますね。
【学問をするところ】
 学校生活の中で最も中心的なことは「学ぶ」ということです。クラブやサークル、友だちづきあい、遊びといったことは、決して学校生活の中心になるものではありません。とくに、「12年の学校教育を修了した者」、「またはこれと同等以上の学力があると認められた者」だけが入学することのできる(学校教育法第56条)大学というところは、小中高校に比べて「学ぶ」という目的が何よりもまず優先されるべきところのはずです。「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的および応用的能力を展開させることを目的とする」(同第52条)からです。
 笑わないでくださいね。大学は学問をするところなんです。
【準備をするところ】
 長い人生の中で、大学って実は通過点に過ぎないんですよね。ということは、大学を卒業したあとにも「何か」があるんです。ですから、大学は、その「何か」のための準備をするところなんです。つまり、大学での学問はその「何か」のための準備として行われなければなりません。この「何か」とは、多くの場合、就職や進学です。大学の学生は、「大学を卒業したあとどうするか」を考えて学問をしなければなりません。「じゃ、ロシア語学科の学生はみんなロシア語を使う仕事に就くの?」いえ、そんな単純な話ではありません。だって法学部の卒業生がみんな法律家になるわけではないでしょう? みなさんは、ロシア語もできる(!)上智大生として卒業していくんです。
【自由なところ】
 大学は制服もないし茶髪もピアスも禁止されていません。学問や研究は自由の中でこそ発展します。しかし学問や研究は全部が自由(あるいは勝手気まま)なのではありません。学問や研究には法則やら定理やら何やら決まりごとが何千何万とあって、その積み重ねの上に、広大な自由があるのです。学問や研究の大部分は、実はレンガを1個1個積み上げていくような地道な作業なんです。ですから、最初から「大学は自由だ」と言って勝手気ままにしていたら、結局、学問なんて全然できやしないんです。ロシア語学科では2年生まで、毎日、必修ロシア語を学びます。言葉は習慣と規則の体系です。それを覚えないことには一歩も先に進めません。まずは暗記、繰り返し、宿題 ・・・。「なんだ、ちっとも自由じゃないじゃん」。そのとおりです。掛け算の九九を暗記して、初めて数学の世界に入れたのと同じです。でも言葉は覚えたら、覚えただけ世界が広がるんです。「そんな詰め込みなんて、学問じゃないじゃん」。そのとおり、確かに、詰め込みは学問そのものではありません。でも学問の基礎です。ゆっくり詰め込んでもいいんですが、詰め込まなきゃならない量は同じです。その上に、学問の世界が広がるということを忘れないでくださいね。しばらくは、ひょっとしたら、ずーっと(!)、ロシア語漬けの生活です。
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2003-02-17 1年生来訪
 さみだれ式に続くゼミ論の指導、卒論・修論の審査、入試や原稿書きなどに追われて、このところホームページの更新とメンテナンスをしていませんでした。久しぶりに「のんかん」のカキコがあって、うれしかったので、久しぶりに日記を書くことにしましょう。
 ゼミ論では、「やすべ」のゼミ論が、日本の自動車メーカーのロシア進出についてメーカーの担当者に直接インタビューした内容を基礎にしてまとめたので、とても面白いものになったと思います。「やすべ」自身が自動車メーカーに就職するのですから、本人のいわば自主研修という感じになって、そのこともとてもよかったと思います。
 ナヤさんの修論はやはりけっこう大変でしたね。修士課程の2年間はこの修論のためにあるのですが、やはり単位を取るためにいろいろと修論以外のテーマについて勉強しなければいけないし、その上、就活と重なっていたわけで、すごく大変でしたね。でも、とてもよい論文になったので、よかったよかった。口頭試問の成績もすごくよかったし。
 ところで、おとついの15日(土)、1年生が8人ほどうちに遊びに来ました。U20だから、お酒は飲めなかったけれど、とても楽しかったです。 ところで、1年生のみんなと話していると、やっぱりまだ1年生なんだなぁって思いました。つまり、まだロシア語学科の学生になりきっていないっていうことです。まだ普通の学生っていうか、そういう感じなんですね。
 いつものようにボルシチを出したんだけれど初めて食べる人が多かったみたいだし、小生が普段使いしているグジェリやホフロマ塗りの食器について解説したりするわけだし。そういえばマトリョーシカを珍しがるのもなんだか新鮮です。そして、ロシアの話もまだリアリティがないわけですし。それが4年生とかになると、うちのロシアのテレビを見て「懐かしい!」とか言い出すわけだから、やはりロシア語学科に何年か学ぶということは、すごいことなのだなぁと思います。
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2003-01-29 追いコン
 昨日(28日)は、追いコンでした。楽しかったですね。いつになく多数の学生さんが集まりました。そもそも卒業する学生さんが今年は多いということもありますけど。小生は3次会までつきあいましたが、それでもぎりぎり四ッ谷駅12時10分発の電車に乗って帰ることができました。あのあと、朝まで続いたと聞いてびっくりしています。それだけ、みんな名残惜しいんですね。
 ところで、もう卒業だというのに、小生が、まだ名前を覚えていない学生さんがいて、ほんとうに面目ないです。「私の名前知っていますかぁ」って聞かれて、答えが出てこないのは、ほんとうに教師としては辛いです。もちろん顔は知っていて、けっこう話はしているのに、名前が覚えられないんです。当の学生さんのほうはちょっと寂しい気がしますよね。本当にごめんなさい。
 みんなの名前を覚えると言うことを今後の目標にしたいと思います。
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2003-01-19 期末試験の解答例をアップ終了
 ようやく実施した2つの期末試験の解答例をアップしおわりました。とくに、「ロシア・ソビエト政治・外交IB」の試験解答例のupが遅くなったことをお詫びします。解答を見るためにこのホームページを見たのに、解答が載っていなくてがっかりされた方がいたのではないかと思います。
 言い訳になりますが、1月14日(火)の試験終了後、「ロシア地域研究入門」の解答例をupしたあと、水曜日は授業と会議などのために時間がとれず、その後、1月16日(木)以降は小泉訪露の結果に対する評価の執筆、修士論文の指導などをしていて、「ロシア・ソビエト政治・外交IB」の解答例の作成が延び延びになってしまいました。
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2003-01-13 ゼミ新年会
 昨日はゼミの仲間と新年会をしました。試験直前のこともあって忙しい中、集まってくださった方、どうもありがとう。おかげさまで楽しいひとときを過ごせました。
ボルシチは妻がつくってくれたのですが小生が暖めるときに煮すぎてしまい、ちょっと味が変わってしまったような気がします。ごめんなさい。
 ホームページ作成は折を見て少しずつやっています。講義のページは、2003年度の講義概要と講義予定表をまもなくアップするつもりですが、作年中に学事部に提出した講義概要案と講義予定案を、少し変えようかなあと思案しています。本当は学事部に提出したものを変更するのはまずいのでしょうけど、学事部に提出する段階では2002年度の授業がまだ全部終わっていないので、反省点がまだ明確になっていないんですよね。2002年度のカリキュラムは、2002年度からゼミが始まったこともあって、2001年度までのものをかなり変えたんですが、2002年度の授業を一通り終了した今になって、いろいろ授業予定などで修正すべき点がわかってきました。そのため今ようやく、来年度の講義概要や授業予定について具体的な修正点を考え始めたところなのです。明日から試験ですが、試験終了後に、解答例を講義のページに載せようかなぁとも考えています。
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2003-01-06 新年のご挨拶
 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
 少し近況報告をします。
 上智大学では学部や大学院の再編の議論が進んでおり会議などでけっこう時間をとられています。
研究の面では、ロシア政治の動向を相変わらず見ていますが、プーチン政権は、基本的には安定していると思いますので、のんびり見ていられます。今年の暮れには下院選挙があり、つい先日、新しい下院選挙法ができたので、それをまずチェックしなきゃなぁ、と思っています。
 教育の面では、2002年4月の学年から本格的なゼミを開催したのですが、ゼミの運営も試行錯誤だと感じています。2002年9月のゼミ合宿で、プチャーチンゆかりの戸田に行ったのは、学生さんの評判もよく、よかったと思います。
ようやく小生も学生向けサービスの一環としてこのホームページをつくりました。まだ試作段階ですが、春休み中に、もう少し充実したものにしようと考えています。
 ロシア・東欧学会の事務局は、お陰様で、多くの方の協力で何とかやってこれました。学会のホームページも、春休み中に立ち上げられたらなぁ、と考えています。ただ事務局の仕事、つまり、会計、ニューズレターの作成、年報の送付、ホームページの管理などは、徐々に、手分けしてやるようにしたらいいのかなぁと考えています。
 では、皆さん、よい新年をお迎え下さい。
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