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Diary 2006・2005
2006-01-22 「せかちゅう」
 タイトルはもちろん『世界の中心で、愛をさけぶ』の略ですが、これ、ヒットした映画のタイトルだったんですね。ずいぶん遅れた話題ですが、たまたま視野に入らないとまったく気づかない、という性格なので、今頃になって、話題にします。ネットで調べたら2004年の5月8日から公開された映画なんですね。ベストセラーになった同名の小説をもとに映画化されたものだそうです。
 たまたまビデオなどが入っているリビングルームの戸棚を整理していたら、この『世界の中心で、愛をさけぶ』がテレビで放送されたのを録画したビデオが出てきました。放送は、昨年の秋のようで、娘が録画したとのこと。彼女は、忙しくてまだ見てないと言っていました。『世界の中心で、愛をさけぶ』という、なんだか大げさで自己中なフレーズには聞き覚えがあったのですが、いったいどんな映画なのだろうと、まったくなんの期待もせずに、ビデオデッキにカセットを入れてみました。
 私は、映画は比較的好きなほうだと思います。ただ、忙しくて映画館で見ることはめったになく、たいていはテレビで放送されたのを録画してみることが多いのですが。
 さて、始まりました。キャストで知っている人は、長澤まさみ、柴咲コウ、山崎努といったところです。山崎努は、ベテランの俳優さんなので、さすがに知っています。ただ、どんな映画やドラマに出ていたのかは思い出せません。長澤まさみは、うーん、よくわからない。『ロボコン』という地味な映画の主役をしていたという知識しかないです。柴咲コウは、『グッドラック』の整備士の役で出ていたのをちらりと見たことがあります(この木村拓哉がパイロットの卵を演じたドラマは、たまたま1、2回ほど見たことがあります)。この映画には関係のない木村拓哉も含めて、ネットで正しい表記を確かめてから、ここに名前を書いているくらい、少ししか知らない人たちです。主役の大沢たかおに至っては、まったく知らない人でした。
 そんな、よく知らない登場人物たちが演じていく映画は、高校生の悲しい純愛(長澤まさみ演ずるヒロイン広瀬亜紀が病気で死んでしまう)が一つのメインテーマであり、もう一つは、その彼女の死から10年以上たってもなおその悲しい思い出をひきずって生きている男(大沢たかお演ずる朔太郎)と、その恋人(柴咲コウ演ずる律子)の話です。
 そういえば、「純愛ブーム」とかいろいろ書かれていたみたいだけど、この映画もそのブームを演出したのかぁ、と思いました。ヒロインが死んでしまうのだから、悲しい映画です。悲しい映画を見ると、人は泣きます。人の死は、ドラマや映画では、頻繁に出てきますが、たいていの場合、とくにハリウッドのアクション映画などでは、どんどん人が撃たれたり吹き飛ばされたりします。そういう死は、まるでボーリングのピンがはじき飛ばされるぐらいのものでしかありませんから、悲しみも何も感じさせません。本当は、人が死ねば、必ず悲しむ人がいるはずなのに、アクション映画では、人の死は、はじき飛ばされるボーリングのピンのように描かれています。でも、同じ映画の中で、例えば主役のヒーローの親友が死んだりする場面では、死がドラマチックに描かれ、ときにはヒーローが大げさに嘆き悲しんだりします。死が不平等に描かれています。
 「せかちゅう」では、長澤まさみ演ずるアキ(広瀬亜紀)の愛と死が、丹念に描かれ、涙を誘います。長澤まさみは、じょうずだなと思いました。とくに恋人とのあいだでカセットテープの交換日記がかわされているので、声の演技が重要で、喜びや悲しみ、病気で弱っていく体力などを、声だけで演じ分けるのは大変だったと思います。まあ、なかなかの映画だとは思います。
 もっとも、あまりに偶然が行き過ぎている感じがしたところがあります。いずれも原作の小説にはない、映画の創作部分のようですが、例えば、いなくなってしまった律子を、朔太郎が偶然見ていた天気予報の画面の中で見つけてしまうとか、普通はあり得ないですよね。また、狭い街かも知れませんが、律子が雨宿りしたのが、朔太郎のおじいさんの写真館というのも、偶然の一致過ぎて、不自然です。そもそも、病気のアキが、恋人である朔太郎に渡すテープを運ぶのを頼んでいた女の子(律子)が、やがて、朔太郎と、10何年してから恋人になるというのも、不自然過ぎるというか、偶然のできすぎですが、これは、映画の描いたドラマができあがる根本的な原因なので仕方ありません。ですから、偶然は、これだけにすべきで、あとはもう少し工夫すればよかったのでは、と思います。
 律子が高松に行ったというのがわかるのは、例えば、部屋に残されていたフライトナンバーのメモ書きからとかにすればいいわけだし。律子が写真館にたどり着くのも、偶然ではなくて、彼女が聞いたテープ(アキが、その死の直前に吹き込んだテープ)を聞いて、その中に出てきたので、探し当てたとか、そういう風にすればよかったのにと思いました。あと、ありえないなぁと思ったのが、無菌室で治療中の弱り切っているアキを、オーストラリアにまで連れ出そうとした朔太郎の気持ちです。
 絶対死ぬと覚悟しているから、死を覚悟で、最後の望みを叶えるために無菌室から連れ出すのでしょうが、実際には、病人を愛している人は、絶対にもうすぐ死ぬと思うわけはなく、死なない、死ぬはずはない、死なないで、と思うはずです。だから、最後の望みを叶えるために外に連れだそうとは思わずに、むしろ無菌室でゆっくり静かに寝て治療して、生きて欲しいと考えるのではないかなと思います。
 まあ、所詮、つくりごとと言ってしまえば、それまでですが。しかし、映画を見て、思ったのは、ヒロインが死んでしまうということ自体、やはり映画なんだなあということです。そのほうが、ドラマティックで、悲しいし、純愛として描けるから、よけいに感動も大きいのだろうけど、普通は、人間は、みっともなく生きながらえるものです。でも、それでは、感動的な映画にはならないのですね。
 もう一つ、この映画で、気になったのは、アキの病名が明示されていることです。同じ病気の方が見たら、気持ちが沈むと思います。この病気で亡くなった有名な女優さんもいるし、きっとこの病気の方は、こうした話を聞いたり映画を見るにつけても、気持ちが沈んでいくと思います。やはり、死を描くのは、その意味でも難しいし、生半可な気持ちではいけないと思います。病気で苦しんでいる人、人生で悩んでいる人に、希望や勇気を与える映画が、やはり本当によい映画なのではないかなと思いました。その意味では、「せかちゅう」は、けっしてよい映画ではありません。
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 「高校生のときのことを覚えているか?」、「あんなにいっぱい素晴らしいことがあったのに」みたいなことを、朔太郎が、友人に電話で話しかけているシーンがありました。50歳を超えた私は、その主人公よりも、もっと高校生のときのことを忘れていてもおかしくない年齢です。私は、高校生のときには、あまりいいことがなくて、素敵な想い出はほとんどありませんが、今の自分にとっては、重大な出来事がいくつも起こったので、いろいろ覚えています。いいえ、中学生のときのことだって、いろいろ覚えています。
 とはいえ、恋愛ということなら、むしろ高校卒業後に、それなりにドラマティックな出会いがあり(誰しもがそう感ずるのだと思います)、そして残念ながら別れがあって、そして映画とは違って、その相手の人も、私も、その後も生き続け、互いにそれぞれの人生を歩んでいるわけです。それが普通の人生ですよね。
 でも、誰でも、自分の人生は、それなりに映画みたいなところもあると感じるのではないでしょうか。誰でも、人生はけっこうドラマティックなのではないでしょうか。50歳ころにもなると、過去を振り返ることが多くなります。私は、中学生や高校生のときに、大学生のときにも、ものすごく沢山の文章(手紙、作文、日記、さまざまな記録やレポート、論文など)を書いたので、過去を振り返る際の手がかりになっていいはずなのですが、実は、一部のものを除くと、それらの文章は、ほとんど手許にないのです。出してしまった手紙が手許にないのは当然ですが、そのほかのものは手許にあってもいいのに、ありません。私自身も、実家も、何度も引っ越ししているからです。しかし、それでも、実家の物置に何か残っているかも知れないから、こんど実家に行ったとき、物置を片づけるついでに、探してみようかなと思います。そんな気にさせたのが、「せかちゅう」の効果ですかね。
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2006-01-21 最終授業
 1月もあっという間に、21日となりました。
 1月10日(火)は、演習(ゼミ)のあと、学生さんと新年会で、赤坂見附にジンギスカン鍋を食べに行きました。演習をとっている学生さんは、3、4年生なので、レポートや必修の試験に追われている1、2年生とは、多少感じが違います。1、2年生は、この時期、レポートや試験に追われる毎日で、大変です。余裕のある4年生も、卒業論文を書いていた学生さんは、12月半ばの締切のあとも、修正とかいろいろあって大変です。
 18日は卒論報告会でしたしね。
 さて、20日は今年度の授業最終日。カレンダー上は金曜日でしたが、授業は「みなし水曜日」と呼ばれる水曜日の時間割の日でした。この「みなし・・・曜日」というのは、祝日などがある関係で、曜日によって授業回数が違ってしまうのを調整するために設けられています。月曜日が祝日になることが多いので、「みなし月曜日」というのがたいていあるのですが、「みなし水曜日」は珍しいような気がします。
 授業のほうは、淡々とクールに終わりました。2年生の授業だったので、折り返し点だね、みたいな話を最後にしましたが・・・・。この授業は「ロシア地域研究方法論2」という授業です。前期の「1」のほうは必修科目なのですが、後期の「2」のほうは選択です。選択授業であるにもかかわらず、この授業をとったのは、どういう理由なんでしょうか。水曜日の11:00からというとりやすい時間だったということが最も大きな理由なのかも知れませんが、地域研究が好きな学生さんもいると思います。10月から12月までは英語の論文を読んでいました。ロシアの「民主化」について書かれた英語の論文です。ゆっくりと進んでいたのは、もちろん、必修ロシア語の勉強の妨げにならないようにしているからです。でも、ちゃんと予習して授業に臨んでいた学生さんが多かったようで、うれしいです。
 冬休みをはさんで、インターネットでロシア地域研究のための基礎データを集める宿題を出しました。まあ、そんなに大変ではなかったと思いますが、それでも、人によってはかなり苦労したようです。この授業を受けていた学生さんのなかから地域研究を本格的に勉強する学生さんが出てきてくれるのが楽しみです。
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2006-01-01 新年のご挨拶
 日が沈み、日が昇る。何千年も、何万年も昔から続いている、地球の自転によって生ずる現象。それを人は1日と数えます。
 そんな風にして繰り返す1日のうちのある日を1月1日と定め、地球が太陽の周りを1周するのに365日と4分の1日がかかるということで、366日目にふたたび1月1日がやってくると決めました。半端な4分の1は、4年に1度、2月をいつもより1日多く29日として、1年を366日にすることで、調節することに決めました。
 天文学者はなんと几帳面な方たちなのでしょう。そんな几帳面な天文学者の方に聞きたい。なぜ1月1日は今日なのですか、と。几帳面な天文学者がそう決めたのなら、きっと何か訳があるのでしょう。
 たぶん、『暦の歴史』といったような本があって、その疑問に対する答えが書いてあるのかも知れません。その答えは、ひょっとしたら、ある国の王様の誕生日を1月1日と定めたと書いてあるのかも知れません。
 天文学者が任意の日を1月1日と決めることができるのなら、天文学的にもっと意味のある日にしたような気がするからです。例えば、冬至、春分、夏至、秋分の日などのような日。だって、1日を24時間に分けたとき、12時は、太陽が最も高い位置に来たときではないですか。
 そんなことを考えてしまう、大晦日と元旦。
 それはともかく、今年の年賀状は、右のような感じにしました。写真は、もう一昨年のことになりますが、年末に選挙監視の仕事で行った折りに、キエフで撮った写真を使いました。31日の夜に出しましたので、着くのは3日頃と思いますがよろしくお願いいたします。それでは、みなさん、よいお正月をお過ごし下さい。
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2005-12-31 続く忘年会
 20日(火)はゼミの勉強のあと、ゼミのみんなとお食事会。
 珍しくKYちゃんが音頭をとって、メキシコ料理のレストランへ行きました。メキシコ料理のレストランて、どんなところだろうと思っていたら、なんだ、以前、お昼をよく食べに行ったお店でした。いつもタコスコンボを注文して、食べ放題のタコスをたくさん食べていたのでした。3階にあるレストランで、屋上を利用したアトリウム風のテラス席があるので、作りはチープですが、なかなかいい店だなと思っていたのですが、最近は、昼休みにゆっくりする時間がないので、学内の教職員食堂や、大学の近くのお店で食べていて、四ッ谷駅の向こう岸まで行って昼を食べることもなく、ご無沙汰していたところです。ちなみにタコスは、ロシアのブリヌイに似ています。ハーブの効いたテキーラを飲みました。意外に甘いお酒だなと思いました。お食事会にはOGのAHさんと、ゼミ生ではないIAちゃんも参加。AHさん、仕事で忙しいのに、ありがとうございました。
 21日(水)は、学部教授会のあと、学部の教員の忘年会。
 2次会は、私を含めてロシア語学科から3名、ポル語から2名の先生という、珍しい組み合わせで、私の好きなお蕎麦屋さんに行きましたが、いつものパターンながら某先生が大暴れで、パワー全開でした。
 で、27日(火)から昨日の30日(金)までは、都立大学で集中講義。
 集中講義は、朝の10:30から17:50まで、連続4コマ(6時間)。それが4日間続きます。もっとも、最終日の30日は2コマ講義で、3コマ目は試験で、おわりです。しかし、集中講義は、講義を続けるこちらも大変だけど、聞いている学生さんの方は、もっと大変なのかも。とにかくお疲れさまでした。でも、熱心に質問してくる学生さんなどもいて、こちらも真剣にやりました。
 集中講義のさなかの28日(水)は、ロシア語学科3年のやまちゃんから誘われて学生の忘年会に出ました。久しぶりに会えた学生さんもいて、楽しかったです。でも案外、あっさり終わってしまいましたね。私は、次の日も集中講義なので、体力温存のために2次会には行かずに帰りました。
 さて、昨日、30日(金)は集中講義の最終日。
 私の都立大での集中講義も3度目というリピーターのOMさんとSMさんと、最終日には忘年会をやろうと約束をしていたので、それを楽しみに4日間の集中講義を乗り切って、いざ吉祥寺へ。お店の開く18:00まではまだ間があるということで、コーヒー屋さんで時間をつぶし、おもむろにお気に入りのFUNKYへ。とびきり高いシャンペンを勧められましたが、それには見向きもせず、白ワインを飲みました。ネットで手に入れたクーポン券で、デキャンタ1本サービスなので、やはり飲まない手はないでしょう。で、ここでだいぶおなかを作ってから、いざ、Drayへ。OMさんは、ここではウイスキーをロックで飲んでいましたが、そんなところが、女の子っぽくないと言われてしまう原因なのでしょうか。競馬好きって言うのも、まあ、その、やはり確かに変わってはいると思います。しかし、OMさんのメガネを外したところを初めて見て、感じががらりと変わってフェミニンな感じに大変身するのにびっくりしました。他方、SMさんが牧場主のお嬢さんというのを聞いて、これも驚きました。そればかりか、250ccのバイクに乗っているし、夏にはヒマラヤ登山をしたというのも、スゴイ。
 話をしてみると、学生さんたちも、いろいろやっているんだなあと感心しきり。SMさん、就職が決まってよかったですね。OMさんは、あと1年、頑張るとのことです。ということは、来年また、集中講義で会うことになるのでしょうか。とにかく、それまで、頑張ってください。こうして、年の瀬も暮れて、どん詰まりの今日、ようやく年賀状を書き終えて、そんなこんなでもう2006年の1月1日になってしまいました。
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2005-12-18 卒論提出期限
 あっという間に今年も残りあとわずかになってしまいました。12月15日が卒論の提出期限なので、卒論を書いていた学生さんと、そしてそれを指導する私も、12月は、忙しかったですね。もちろん、書いていた学生さん本人のほうがずっと大変だったと思いますが。メールの添付文書のかたちで、卒論の原稿をやりとりしてだんだん仕上げていくのですが、論文指導の学生は2人きりだけなので、毎日のようにやりとりしていてもなんとかなりますが、これが5人とか10人とかいたら、大変です。ま、それなりに、あっさりした指導にならざるをえないのでしょうが、それはそれ、それでもうまく学生さんはやってくれるでしょう。
 卒論の指導もさることながら、今月は、悩み多き1年生や2年生と、あれこれ話をする機会も多かったです。本当にみんな「よいこ」なのですが、やはりそれぞれに難問を抱えています。だんだん強く思うようになったのですが、ロシア語学科にいても、なんとなくロシア語に熱が入らないというか、ほかのことに興味が出てしまうのは、もちろん仕方ないことですが、まだロシアに行ったことがないのなら、やっぱりまずロシアに行ってみたら?と思います。でもって、やっぱり、ロシア語はちょっと・・・、と思うのなら仕方ないですけどね。私は、たまたま偶然にロシア語を選択してしまったわけだけど、それで自分の生涯がかなり決まったと思うと、たまたまの選択だったけど、ロシア語をやってよかったと、本当に心の底から思います。
 たまたま偶然というのは、多分、入試の2次試験のとき、小論文を書いて、そのあと面接になるときの順番を待っているときに、もし入学したら外国語に何語を選択するかということを第6志望くらいまで書くカードが配られて、その第1志望にロシア語と書いたわけです。何か根拠があったわけでもないけど、歴史が好きで、現代史の勉強をしたいと思っていた私が、20世紀の歴史的事件のなかでは、ロシア革命に興味があったからでしょうか。でもって、入学前の春休み中に、NHKのカセットテープ付きの入門書を買ってきて、最初のほうを聞いたり、テキストを読んだりしていたんですね。
 入学して、ロシア語の最初の授業のときに、既習者(都立北園高校を卒業したAS君)がいたのにはびっくり。彼に負けるのが悔しくて必死にやっていたのがよかったのですかね。英語嫌いだったのに、妙にロシア語は私の性にあって、好きになりました。法学部の必修ロシア語クラスは法律学科と政治学科と合わせて20人くらい学生がいたと記憶していますが、女子学生はゼロでした。
 選択ロシア語は、いろんな学部学科の学生さんがいて、全部で10人くらいでしたか。2年目からは文学部の1学年下の女子学生が2人(KYさんとKMさん)入ってきたのですが、それにしても女子学生は少なくて、女子学生が多い今のロシア語学科とはまるで雰囲気が違います。この2人の女子学生は、ものすごく優秀で、当時行われていた朝日新聞社のロシア語コンクールに2年連続で慶応の学生が優勝するという珍事があったのですが、それはこの2人の女子学生です。KYさんは、その後、プロの通訳になって、いまは、ある大学の先生をしています。
 必修ロシア語のクラスでは、結局、ロシア語をちゃんとやっていたのは数人で、あとはただ単位のためにいたという感じでした。その点、選択ロシア語クラスは、やる気のある人が多くて、楽しかったですね。誘い合って、ロシア映画やロシアから来た美術展を見に行ったりしました。それと選択ロシア語の合宿もありました。ほかの言語をやっている人もいたのですが、これはけっこう楽しかったです。そういえば、夏休みなどには、日ソ学院(現東京ロシア語学院)の講習とロシア語合宿にも参加していました。よほどロシア語が好きだったのかなと、今でもちょっと不思議な気がします。
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2005-12-03 悩み多き学生さんたち
 11月27日(日)丸の内のレストランで、3人の卒業生と会って、食事会。丸の内の仲通りは、大きなオフィスビルが並んでいて、その1階がブティックとかしゃれたショップになっていて、ちょうどヨーロッパの街並みのようになっています。私のイメージとしては、ヨーロッパの街並みと言っても、モスクワとかペテルブルクとかなんだけれど、モスクワやペテルブルクよりも、丸の内のほうが、はるかに清潔感があります。そのぶん、丸の内は、少し人工的でもあるし、いくぶんお高く止まっているという、そんな感じもします。
 そんな丸の内仲通りのレストランを指定したのは私ですが、それは、やっぱりロシア語学科の卒業生と会うのですから、それなりに考えたわけです。お店は、基本的には、鶏料理のレストランなのですが、和風ではありません。席はすべて個室風に作られていて、比較的静かです。インテリアはモダンでクールです。いつものように、多忙なITさんが遅刻するということで、私を含め3人でコース料理を始めました。
 結局、ITさんは、ずいぶん遅れてきて、ギネスとデザート(抹茶のミルフィーユ?)しか食べませんでした。ITさんが遅れてきたこともあり、近くにお気に入りのカフェバーがあるので、そこに行きましょうということになり、行ってみたのですが、さすがに日曜日はお店が閉まるのが早く(といっても、もう22:00でしたが)、さらにもう1軒とたずねていきましたが、結局、空振りに終わりました。
 丸の内仲通りは、最近はやりのクリスマスイルミネーションで、飾られていましたが、クリスマス近くになると、もっと豪華になるのでしょうか。そういえば、新宿南口の高島屋・東急ハンズのところにあるバルコニーのイルミネーションは、毎年今頃になると、いつもとてもきれいですね。
 おとつい、その奥にある紀伊國屋書店にゼミで輪読するヴェーバーの『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』を買いに行ったときに見ました。この本、恥ずかしながら、1998年に新訳が出たのに、まだ買っていなかったのです。旧訳の『社会科学方法論』を学生時代に勉強して以来、ずっと省みなかったのですが、いつの間にか読みやすい新訳が出ていたので、いつか機会があったら読み直そうと思っていたのです。
 最近、私のゼミでは、社会科学の古典の輪読をしようということになって、それでこの本を学生さんと一緒に読むことにしたわけです。その前のゼミでは、数回に分けて、マルクスの『共産党宣言』をみんなで読んで、そのあと、彼の『経済学・哲学草稿』、『ミル評注』、『聖家族』、『ヘーゲル法哲学批判』、『ユダヤ人問題によせて』、『経済学批判・序言』、『資本論』第1巻などのなかで、彼の歴史観がどのように展開されていくかということについて、私が話をしたりしました。
 なんだか話がとりとめもない方向に行っていますので、丸の内仲通りが、ヨーロッパの街並みに似ているという最初の話に戻しますが、実は、都内で、モスクワの街並みに似ているところが、ほかにもあるのです。赤坂見附から虎ノ門にかけての外堀通りが、モスクワのサドーヴォエ・カリツォー Садовое кольцо の街並みに似ているのです。サドーヴォエ・カリツォーは、モスクワに3つある環状道路の一つで、いちばん内側の環状道路であるブリヴァール Бульвар のすぐ外側にあって、メトロの環状線 Кольцевая линия にほぼ沿っている環状道路です。そのサドーヴォエ・カリツォーの風景に、赤坂見附から虎ノ門までの風景がよく似ています。環状道路ですから道路が少しずつ曲がっていて、そのために通りのずっと先まで、環状道路の外側に並んで立つビルが見える、あの風景が、です。通りに沿って総理官邸とか、特許庁のビルなどがあるのも、サドーヴォエに沿って外務省などがあるのに、ちょっと似ていなくもありません。ビルのかたちはぜんぜん違いますが。
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 さて、学生さんの悩みを聞いたりするのも教員の大事な仕事です。そんなことをしながら最近とくに思うようになったことなのですが、今の学生さんたちの多くは、高校生のとき、多分、大学に入りたい、入るんだということを勉強の目標にして、入試を受けて、合格して、大学に入学してきたんだろうなってことです。
 当たり前のことを今さら、ということですが、でも、やっぱり思うのは、それだけだと、ロシア語学科は、入ってからきついんだよなぁっていうことです。大学に入ったらあれもしたい、これもしたいと、いろいろ考え、でも今は受験だから我慢我慢と、受験勉強をしてきて、「合格だ。やったぁ、これで受験勉強ともさよならだぁ」っていうのは誰しも思うことなんですが、ロシア語学科の場合、実は、大学に入ってからのほうが大変だったりするんですよね。
 私自身は、昔のことだから、あまりよくは覚えていないけれど、受験勉強はつまらないと考えていた記憶があります。多分、受験勉強は嫌いでした。だから、はやくそこから抜け出したいと思っていたと思います。そもそも大学に行こうと思ったのは、社会科の教員(できれば高校の日本史か世界史の教員)になりたいと思ったからで、古いところよりは、現代史が好きだったので政治学科に行くことにしたのですが、その意味では、けっこう明確な目標を持っていたと思います。
 だから、大学に入ってからの勉強は、大変だったけれど、つまらないとか、イヤだとか、思わなかった。1年生のときから、学生同士で集まって、自主的に社会科学の古典を輪読する、いわゆる読書会みたいなのをやったりとか、ゼミがはじまってからは、先生が出てくる本ゼミ以外に、学生だけでサブゼミとかを週2回くらいやっていたし、そんなふうにできたのも、多分、本を読んだりして、勉強するのが面白かったからだと思います。思えば、本ゼミで英語ばかり読んでいたのに、サブゼミでも自分たちでE.H.カーの『ボリシェヴィキ革命』の、まだ翻訳が出ていない部分(つまり原書)を読んでいました。
 どんなことが書いてあるか知りたかったのに、翻訳がないから、仕方なく原書を読んだわけで、英語の勉強をしようと思ったわけではないけど、思えば、大学生が英語を読むのは、英語の勉強ではなくて、本当は、自分の知りたいことが英語を読むことでしか知ることができない場合に読むんですよね。
 サークルやりたい、アルバイトやりたい、海外旅行も行きたいね、って考える気持ちは、よーくわかります。でも、勉強がつまらなかったら、やっぱり、大学生活はつらいよね。サークルやって、バイトやって、でもって、留年したら、「なんてこったい」って感じです。留年してまでのめり込むほど充実感のあるサークル活動とかがあるのなら、それもいいのかなと思います。バンドのサークルやって、のめりこんで、プロになってしまった人だって、いるわけだしね。体育会系のクラブで、試合のために頑張るのも、確かに、青春っていう感じですよね。そのぐらい頑張っている人は、それはそれでいいとも思います。勉強ばかりやって大学院行って、それでもって、結局、アルバイトの塾教師で生計を立てていたかつての自分を考えると、それだって、はたから見れば、大学院ていうのが多少は聞こえがいいのかも知れないけれど、要するに先の見えない「プー太郎」だったわけで。
 でも、それほど頑張っているわけでもないサークルとかにいて、日々を過ごし、小遣い稼ぎのバイトとかをやりすぎて、結局、留年したら、やっぱり本末転倒ですよね。でも、ある意味もっと深刻なのは、やはり自分自身の生き方とか、自分は何をしたらいいのかとか、卒業後どうしようとか、そういうことにまじめに悩んで、適当に日々をやり過ごせないタイプの人です。要領よく適当にやって、なんだかんだ言いながらも、ぎりぎりで進級していく人がいる一方で、まじめだからこそ、あれこれ悩み、そして不器用なものだから、適当にやり過ごせずに、進級できなくなってしまう人もいます。
 どちらがいいとも言えませんが、長い目で見れば、人はどこかで、きっと思い悩み、立ち止まらなければならないことがあって、それが大学生のときなのか、高校生のときなのか、あるいは社会人になってからなのか、その違いだけなのかも知れないとも思います。今は要領よくやっているように見えても、それは、ずっと以前に挫折したことがあって、そのときに苦しんだ結果つかみとった処世術なのかも知れないし、あるいは幸いにこれまでは要領よくやり過ごしてこれたけれど、近い将来に挫折してしまうことがあるかも知れません。
 自分のことを考えると、上に書いたように、けっこうゼミとか忙しかったし、そもそもの大学入学の目的だった教員になるために、教職科目をいっぱいとらなくてはいけなくて、ほかのゼミの連中よりもさらに忙しくて、その上、なんでロシア語の勉強をやっていたのか、不思議な気もするけど、それだけ、ロシア語が面白かったからだと思う。なぜ、ロシア語にのめり込んだのか、不思議だけど、3、4年次では、いまのロシア語学科の学生さんほどロシア語ばっかりやっていたわけはないような気もするし・・・。
 私は、ロシア語は、1、2年次は、必修ロシア語が週2回、選択ロシア語が週2回の、合計4コマで、3、4年次は、すべて選択でロシア語講読2回、選択ロシア語週2回の、やはり合計4コマでした。文法は1、2年次の必修ロシア語でやって、選択ロシア語は、テキストが会話中心になっている教材を使って日本人教員がやっていました。選択ロシア語は、4年次には、卒論とか、教育実習とかで忙しくて、けっこう休んでしまいました。3、4年の講読は、専門の勉強なので、休むことなく、ロシア史あるいはロシア(当時はソ連)の政治や法律に関する原書を一生懸命に読んでいました。授業は、音読なしで、ひたすら訳すだけだから、進み方がめちゃめちゃ速くて、講読の授業のある前の日とかは、けっこう半徹夜みたいな感じだったような気がします。
 とにかく、ロシア政治の勉強は、ひたすら英語とロシア語の本を読むという勉強でしたから、まあ、ロシア語の勉強をしていたわけではなくて、ロシア政治の勉強でロシア語を読んでるわけで、だから3、4年次はあんまりロシア語の勉強ばかりしていたという印象が残っていないのかなと思います。
 で、結局、学生さんと話をしていて思うのは、やっぱりロシア語を読んだり話したりすることが面白いと思わないとつらいよね、ということ。だから、ロシアに行ってみたら、いいのかなと思います。そうしたら、何かが見えてくるかも知れません。
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2005-11-19 日本国際政治学会
 11月18日(金)から20日(日)まで、札幌で日本国際政治学会があって、私は、18日の昼間のセッションと、夜のセッションの討論者を頼まれていて、そのため17日(木)に札幌に出かけましたが、19日(土)には東京で仕事があるので、すぐに戻ってきてしまいました。札幌は雪でした。寒いところは大好きです。だからロシア研究者なのか、ロシア研究者だからなのか、わかりませんが。
 学会のほうは、昼間のセッションは、北海道大学スラブ研究センターの中堅・若手の、とはいえ、第一線で活躍している3人の研究者が、それぞれ、ウクライナ、グルジア、クルグズスタンの「民主化」について報告するものでした。事前に(とはいえ、前日!)送られてきた3本の論文を17日(木)にホテルで夜遅くまでかかって必死で読んで、コメントを、ホテルの便箋に(!)5枚ほど書いて、準備しました。3報告とも、簡単に言ってしまうと、「オレンジ革命」(ウクライナ)とか「バラ革命」(グルジア)なんて言って「民主化」したみたいに言ってるけど、そんな単純な評価はできないというものでした。で、私のコメントのタイトルも、「『○○革命』なんていうレッテルを貼ってわかった気になるのはやめよう!」というものです。ホテルでコメントを書いているときには、ちょっと過激かなぁ、などと思っていたのですが、会場で3人の報告を聞いていたら、ちっとも過激じゃないことがわかって、そのタイトルでコメントを話しました。
 3人の報告は、レベルが高く、しかもとても面白いものでした。夜のセッションは、1報告に対してのコメントです。こちらの論文は1ヵ月ほど前に送られてきたので、直前に読んだのではないのですが、これはこれで実に大変でした。なんと多変数相関分析によるロシア大統領府の人事研究です。まあ、とにかく、コメントはしなくてはならないので、なんとか頑張りましたが・・・。
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 さて、札幌から飛行機で戻って、お昼を食べようと思って、四ッ谷のイタリア・レストランに入ってパスタを注文したら、あら、なんと、ロシア語学科の1年生の学生さんがこのお店でアルバイトをしていて、声をかけられました。おや、まあっていう感じです。学生さんが四ッ谷のお店などでアルバイトをしているのは珍しくはないのですが、実際にお店で働いているところに出会うことは滅多にありません。授業のときとはなんだかぜんぜん違う雰囲気で、かいがいしく働いている様子が新鮮でした。なぜか、パスタもいっそうおいしく感じました。
 土曜日のお昼に四ッ谷のレストランで食事をするのは、とてもまれなので、かなりの偶然です。ほかに、金曜日の夜にも働いているというのを聞き出したので、こんどは、金曜日の夜に行ってみようと思います。この学生さんは勉強も一生懸命やっていて、だから週2日くらいであればアルバイトをやっても、心配なことはありません。勉強とアルバイトを両立させていて立派だと思います。
 しかし、一般的には、ロシア語学科の学生さんは、1、2年のときは予復習や試験勉強が大変なので、部活もアルバイトもやりながらというのは、よほどの覚悟がないとうまくいきません。実は今日も部活で頑張っている学生さんがやってきて、いろいろ話をしました。この学生さんは、いわゆる「お遊び系」のサークルではなくて、まじめな部活をやっているので、それだけに部活も続けてほしいし、勉強もやってほしいと思うのですが、なかなかロシア語の成績がよくなりません。勉強時間が足りないというのは事実なのですが、むしろモチベーションの問題のように思いました。とてもよい学生さんなので、頑張ってほしいのですが、まだ「何かを見つけられずにいる」という感じです。こういう学生さんは、今すぐにでも、ロシアに連れて行ってあげれば、いっぺんに解決してしまうのかもしれないとも思います。勉強は対象に魅力を感じないと、なかなか続けられないものです。
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2005-11-03 新しいカリキュラム
 10月は2006年度のカリキュラムの編成作業に時間をとられました。ロシア語学科は、2006年度入学生からカリキュラムをドラスティックに変えます。といっても、ロシア語学科の柱であるロシア語教育の重視とロシア地域研究のラインナップに本質的な変化はありません。では、どこがドラスティックなのか。詳しくは、今月末までにリニューアルする予定の学科のホームページを見ていただきたいのですが、ここで、少しだけ、説明しておきましょう。
 まず、1年生と2年生の必修ロシア語が、それぞれ週5コマから週6コマに、1コマずつ増えます。「鉄は熱いうちに打て」ではないですが、やはり1,2年の基礎段階の学習を、これまでよりも、もっと時間をかけて、ていねいにやろうということです。増加分の1コマは、1年生はネイティヴの先生による「会話」、2年生は「講読」(つまり英語で言うReaderですね)です。つまり、1年生は、ネイティヴの先生による「会話」の授業が週2回に、また2年生は「講読」の授業が週2回になるのです。
 もう一つドラスティックな変更があります。こちらの変化の方がドラスティックです。な、なんと、3年に週3回あった必修ロシア語(ロシア語III)、4年に週1回あった必修ロシア語(ロシア語IV)が、ともに廃止され、3、4年生は、学年の区別なく、たくさんのロシア語の授業メニューから各自が自由に選択できるようになります。
 このことは、全員同じ授業を受けるという意味での必修ロシア語が廃止になったことを意味するだけで、3、4年はロシア語をやらないということになったわけではありません。つまり必修を廃止した目的は、3、4年になると、会話系重視の学生さんと、講読系重視の学生さんに分かれる傾向があるので、それぞれの希望に添ったかたちでロシア語の授業を受けられるようにしようということと、3、4年ともなると、さすがにできる学生さんとそうでない学生さんとの力の差がはっきり出てくるので、同じ学年の全員が1つの教室で同じ授業を受けることがあまり効率的でないし、とくに休学して留学してきた学生さんが帰国後に、1年下の学年と一緒に授業を受けるのは、力の差がありすぎて、留学帰りの学生さんにとっても、下から上がってきた学生さんにとっても、教員にとっても、授業がやりにくいので、いっそのこと学年の壁をとりはらって、いわば難しめの授業と、そうでない授業というように内容的に分かれている授業をそれぞれの能力や希望に応じて受けられるようにしようということです。
 しかし、この新カリキュラムは、2006年度入学生から適用されるので、在学中の学生さんは、これまで通りのカリキュラムです。実は、その移行期のカリキュラム編成が難しいのです。これまで通りのスタッフとロシア語学科の全コマ数を変えることなく、異なるカリキュラムを併存させなければならないのですから。移行期は3年間で、完成するのは2009年です。で、ロシア語学科は、ここ1年ほどかけて、移行期の終了する2009年までのカリキュラムを考えてきたわけです。そして、とりあえずは2006年度のカリキュラムを完全な形で完成させないといけないわけで、そのため、この10月はたいへんだったと、こういうわけです。
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2005-10-08 9月のこと、最近読んだ本
 9月はなんだかんだと意外に忙しかったので、Diaryもご無沙汰でした。近頃は簡単にウエッブ上に日記などが書けるブログが学生さんたちのあいだでもずいぶんはやっているみたいです。ブログはかなり便利なものなので、そのうちこのページもブログに移行するかも知れません。ただ、ブログはデザインのカスタマイズがちょっとしづらいので、躊躇しています。
 というか、学科のホームページをつくり直そうとしていて(まだ未完成ですので、新しいページは公開していません)、学科のホームページのデザインを変えようと思っているのですが、他方、自分のホームページのデザインも変えたくなってきています。
 9月中にやっていたことはと、考えてみると、たいしたことはできませんでした。海外修学経験者(いわゆる帰国子女)入試があったりもしましたが、大学の授業はまだなので、そんなに忙しかったわけではないのですが、思い返すと何をしていたんだろうって・・・。学生さんと一緒に勉強したり、調べものをしたり、来年度のカリキュラムをつくったり・・・。本もいろいろ読みました。
 そういえば、卒業生と会って、食事に行ったりしましたね。仙台の大学院に行ったYTさんに卒業以来久しぶりに会いました。がんばっているみたいです。就職したTCさんと、進学したTYさんにも会いました。相変わらずTCさんはパワフル。TYさんとは、意外にも韓国の話で盛り上がってしまいました。韓流ブームに便乗しているわけではありません。そんなブームが来るずっと前から、私にとって韓国は大事な国だったので・・・。でも、もう何年も韓国には行っていません。
 そういえば、経団連でロシアの政治情勢について話をさせていただいたときに、会場に、2年前の卒業生のMMさんがいたのには、びっくり。久しぶりに(でもないですが、たまに会っていたので)、一緒に食事でもしたかったのですが、私のほうがそのあとまだ大学で仕事があったので、残念でした。学生さんや卒業生の方たちと話していると、そればかりか学生さんたちがあっちこっちで悩みながらもがんばっていたり、ロシアに行ったりアイルランドや中東や、いろいろなところで貴重な体験をしたりしているのを聞いたり見たりするだけでも、こっちは、なんだか勇気づけられる気がします。
 9月は、そういえば、次のステップにつながる、何か種のようなものを、見つけられたのかも知れないと思うようにします。学生さんや卒業生たちが、どんどん成長していくのがまぶしく感じるようでは、焼きが回ったという感じですね。あと、とても残念だったのは、台風のために、戸田のゼミ合宿を中止してしまったことです。いま思えば、中止しなくてもよかったのかも知れなかったのですが、それがとにかく心残りです。
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 ところで、Diaryに、最近読んだ本のことを書くことにします。越澤明『哈爾浜(はるぴん)の都市計画』(ちくま学芸文庫、2004年)を読みました。越澤先生の本は、同じちくま学芸文庫から出ている『東京都市計画物語』と『満州国の首都計画』を読んでいて、いずれも手堅い研究だなと感心して拝読していましたが、この『哈爾浜(はるぴん)の都市計画』は、当然のことながらロシアのことがたくさん出てくるので、とくに興味深く読みました。この本で初めて哈爾浜学院の校舎の写真を見ました。いつか哈爾浜にも行ってみたいと思います。
 あと、最近読んだ本の中で面白かったのは、西牟田靖『僕の見た「大日本帝国」』(情報センター出版局、2005年)ですかね。仕事柄、とくにサハリン篇が興味深かったです。ただ、著者がサハリンに行ったのは2000年のことなので、その後、サハリンはかなり変わった部分もあるのではないかなと思います。この著者もそうですし、今の学生さんの話を聞いても思うのですが、今は、直接現地に行って、いわば体当たり体験みたいなのができるからすばらしいですね。私が学生だった頃は、とうていそんなことはできなかったですが。サハリンに行けたとか行けなかったとかではなくて、当時の日本の経済水準では、とても学生では外国に行くことができなかったからです。
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2005-09-01 ドイツみやげ(つづき)
 旅行のおみやげの話の続きです。
 一番上の写真は、ドレスデンの「世界一豪華なチーズやさん」で買ったチーズ味のクッキーの入っていた缶です。けっこうそれらしいデザインの缶なので、写真に撮りました。
 まあ、日本のおみやげでも、たとえば虎屋の羊羹の入っている箱のデザインなんかは、私たちは、見慣れているから何とも感じないけれども、外国人が見たら、「けっこうそれらしいデザインだ」なんて思うのではないかなと思います。確かに京菓子のパッケージなんかは、千代紙で小綺麗につくられていて、いかにも日本情緒なんですが、まあ、この缶なんかはその逆で、地元の人が見てもどうってことない、むしろ野暮ったいデザインなのではないかと思うのですが、私たちが見れば、なるほどねぇ、みたいなデザインです。
 これは、これを売っている「世界一豪華なチーズ屋さん」の内装のタイルをデザイン化したもののようです。ちなみに缶の高さは165ミリくらいです。まあ、この缶は、何かお茶っ葉とかを入れて使いましょうかね。

 さて、真ん中の写真の黒地に赤と緑の人のかたちが描かれているものは、磁石です。大きさは80ミリ×60ミリくらいです。よく冷蔵庫の扉なんかに、メモを貼り付けておいたりするときに使うものです。人のかたちがデザインになっていることから、すぐに推測がついたと思いますが、これはドイツの歩行者専用信号機のシグナルのデザインです。
 さて、いちばん下の写真は、絵はがきですが、ちょっと変わっています。実は、絵はがきの右下の部分にプラスティックの丸いケースがはめ込まれていて、そこに「ベルリンの壁の断片」とおぼしきものが入っているのです。ですから、平面的な絵はがきではありません。プラスティックケースの部分だけ10ミリ以上の厚みがあるので、日本の郵便のシステムでは定形外になるのではないかと思います。
 それにしても、この中に入っているコンクリートの破片は、本当にベルリンの壁の断片なのでしょうか? この「壁の断片」は、緑と青の色が付いています。絵はがきでわかるように、壁にはいろいろないたずら書きがあったので、そのためだということなのでしょう。ますます、このコンクリート片がベルリンの壁だったという信憑性が出てくるということなのでしょう。
 でも、私は、このコンクリート片は本当のベルリンの壁ではないと思っています。おみやげやさんにたくさんありすぎるし、壁が壊されてからもう15年以上もたっているのですから。
 絵はがきは、ベルリンの壁があった当時の写真のようですが、壁の上に乗っているように見えるのは、新聞のようで、旧東独の最高指導者であったホネッカーが、「壁はなお100年以上残る」とか言ったということを報じたもののようです。でも、壁は40年ももたなかったわけですね。
 ちなみにエーリッヒ・ホネッカーは、1976年から1989年まで、旧東独の支配政党だったドイツ社会主義統一党中央委員会書記長で、国家評議会議長でもあった人物です。そして彼は、1961年のベルリンの壁の建設の責任者だったそうです。


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2005-08-31 音楽の話、ロシア語研究室
 もう8月も終わります・・・。で、なんの脈絡もなく音楽の話を。
 雑誌のMini International のおまけのCD/DVDに入っていた曲が気に入ってしまって、マイナーな曲だから、地元のCD屋さんにはおそらくないだろうと思って、新宿で途中下車して、南口のTower Recordに行ってみました。実は新宿南口のTower Record は初めて。渋谷のTower Recordには昔(1980年代)よく行きましたけど。最近は、もっぱら地元のHMVとかで買っていました。  で、買おうと思ったアーチスト名は?って言うと、一つは、Seelenluft といって、これはドイツのグループ(*1)です。おまけのCDに収録されていた曲は、Baby Baby (YouTubeビデオ)でした。なかなかクールな曲です。
 (*1)このDiaryを書いたときは「ドイツのグループ」と書きましたが、その後、それは間違いで、スイスのソロ・アーティストだということがわかりました。
 それから、Tweak です。同じ名前のグループが日本にもありますが、私が気に入ったのはスイスのグループのほうです(*2)。Tweak の収録曲は Individualizer です。こちらのほうは、ネット上ではまだ配信されていないようですが、これもなかなかクールな曲です。
 (*2)この日記を書いたときは「スイスのグループ」と書きましたが、その後、調べてみましたが、情報がありませんでしたので、「スイスのグループ」というのは、間違っているかも知れません。
 そのほか、おまけCDには、Manhead、Earthbound、Leme といったグループの曲が入っていました(*3)。いずれも、けっこう気に入りました。ドイツに行ったときに、インテリア・ショップとかブティックでこんなような曲がかかっていたような気がして、たまたま帰国してから、偶然、聞いて、CDがほしくなったわけです。  ちなみに、Mini Internationalっていう雑誌は別にドイツの雑誌ではなくて日本の雑誌です。で、新宿南口のTower Record には、結局どれもありませんでした。
 (*3)「Manhead」、「Earthbound」、「Leme」も、グループなのか、ソロ・アーティストなのか、同様に未確認です。
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 ところで話は変わりますが、大学の図書館4階にロシア語研究室というところがあります。そこには、ロシアに関する日本語やロシア語、英語の本などや、映画などのビデオテープなどが置いてあります。このロシア語研究室は、担当事務員の人件費の配分が少ないために、図書館本館とは違って、日常的に開室することができません。授業のあるときは、月水木の週3回。夏休みなどはほとんど閉めていて、8月は31日(水)だけ開室することになっていました。
 そこで、今日、私も久しぶりにロシア語研究室に行きました。ロシア語研究室にある粗大ゴミというか、古くなった備品などを処分しなくてはと気になっていたからです。研究室の担当のSYさんも、もちろん出勤してきていて、いつものように明るい声で挨拶してくれます。彼女や大学院生のKY君にも手伝ってもらって、ようやく古い備品などを片づけることができました。
 そんな片づけをしているときに、ロシア語学科の1年生のある学生さんがひとり、やってきました。彼女には、このロシア語研究室でよく会います。私は滅多にロシア語研究室には行かないのに、ここでよく彼女に会うということは、彼女はしばしばロシア語研究室に来ているのだと思います。彼女は、8月は今日だけしか開室しないということを知っていて、わざわざ今日やってきたとのことです。
 彼女と、少し、ロシア語のことや、留学のことなどについて話しました。とてもまじめな彼女にはいつも感心させられるのですが、研究室担当のSYさんも、同じように思っていたらしく、「あの学生さんは、きっと、立派な人になりますよね」って・・・。「立派な人」っていう表現がちょっとおかしかったけど、でも、本当にそうですね。
 「立派な人」になるかも知れないまじめな1年生が退室してしばらくすると、こんどはまた別の「立派な人」がやって来ました。2003年3月に卒業したKMさんです。彼女は2年ほどロシアにいて、最近帰国して、なんとなく大学に来て、なんとなく図書館に来て、なんとなく4階に来てみたら、ロシア語研究室が開いていたので、と言います。
 卒業生は、年会費を払うと図書館入館証を持つことができるのですが、それを持っていて、久々に帰国して、図書館に来るというのもすごいですね。「最近出たロシア関係の本で何かおもしろいものありますか?」と聞かれました。思いつくままに何冊か上げてみたのですが、それにしても、この人も本好きなんですね。8月、たった1日だけロシア語研究室が開室している今日、母校の図書館に来るなんていうのも、偶然とはいえ、彼女もただ者ではない、という感じですね。彼女も何冊か借りて帰っていきました。本好きな人がいてくれて、本当によかったです。たった1日でも、開室した甲斐がありましたね、SYさん?
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2005-08-24 ドイツの話(2)
 ドイツ旅行の話の続きです。

ドレスデン
 8月8日の早朝、ベルリン・ツォー駅から、ドレスデンへ向かうICEの出るベルリン東駅まで移動しました。ベルリンの中央部の北側を西ベルリンから東ベルリンまでぐるりと迂回するような感じです。朝の通勤時間帯だというのに駅も車内もすいていて、自転車をそのまま車内に持ち込んでいる通勤客がちらほらいます。電車が空いているからこそできることですが、自宅から最寄りの駅まで自転車で行き、その自転車をそのまま車内に持ち込み、下車駅からまた自転車に乗って目的の場所まで向かうことができるなんて、実にうらやましい限りです。
 さて、ベルリン東駅は、住宅地にあるような駅で、駅の周辺は繁華街ではありません。でも、大きくてきれいな駅で、地下に、大きなスーパーマーケットが2つ、これまた大きなドラッグストアが1つ、2階にはこれまたそこそこ大きな本屋さんがあります。住宅街にある駅なので、地元の人たちはさぞや便利でしょう。
 さて、この駅から、ドレスデンへ向かうICEに乗ります。私たちが乗ったICEの最終目的地は、プラハでした。国際列車なのですね。田園を走り抜けること2時間ほどでドレスデンに到着。ドレスデンはエルベ川沿いにある古い都市で、ザクセン王国の首都だったところです。降り立ったドレスデン中央駅は、工事の真っ盛りで、ほこりがもうもうとしていました。駅前も大規模な再開発というか工事が行われていました。
 駅前から市電が出ていますが、それには乗らずに、旧市街に向かって街歩きを楽しみました。新しいショッピング街と、古い建物が入り交じっているような感じです。途中、ソ連国旗を持ったおじさんがいて、機関紙のようなものを売っていました。旧体制を支持する立場なのでしょうか。ロシアにも、年輩の方にそのような人がいますが、ここも同じようですね。
 お昼どきになったので、たまたま通りかかったイタリアン・レストランに入りました。ファミレスふうの明るい感じのお店で、厨房がよく見えて、一生懸命に、コックさんやウエイトレスの女性が立ち働いているのが見えます。お店の感じはとてもよかったのですが、パスタのできは今ひとつでした。パスタはちょっと茹ですぎです。ドイツ滞在中、イタリアン・レストランは、ここにしか入らなかったので、一般化することはできませんが、ひょっとしてドイツでは、パスタは柔らかく茹でるのでしょうか?
 茹ですぎパスタで腹ごしらえをしたあと、街歩き再開。宮殿レジデンツシュロスを見学。といっても、往事のかたちをとどめているのは外観だけで、中は近代的なビルのようになっていて、博物館になっています。博物館は、かつて宮殿で王族が使っていたり、コレクションしていた様々な置物や食器類などが展示されています。金銀宝石の細工ものが多いのですが、クレムリンやエルミタージュの宝物殿にあるロマノフ王朝のものとは、デザインの雰囲気が違い、どちらかというと、こちらのもののほうが、具象的なデザインが多いように思いました。
 レジデンツシュロスの博物館の展示品をゆっくり見たあと、すぐとなりの城壕宮ツヴィンガーに行きました。こちらも往時の面影は外観に残されているだけです。しかし、レジデンツシュロスもツヴィンガーも、外側もかなり第二次世界大戦で被害を受けていて、黒くすすけています。
 エルベ川にかかる橋を渡って、対岸に行きました。こちらは、住宅街ですが、「世界一豪華なチーズやさん」というガイドブックの謳い文句につられて、そのチーズやさんに行くことにしました。歩くと、そこそこ距離があります。レジデンツシュロスからだと、2キロ近くはあるかも知れません。くだんのチーズやさんのある付近は、モスクワにあるようなアパートが道路に面して立っていて、アパートの1階が商店になっています。街の雰囲気がモスクワのクズネツキーモストあたりとそっくり。
 ドレスデンに行こうと思ったのは、実は、ここにかつて、1980年から10年間ほど、対外諜報員だったプーチンが勤務していたからでもありますが、こんな街なら、ペテルブルク出身のプーチンにもそれほど違和感はなかったでしょう。もちろん、モスクワやペテルブルクのほうがずっと大きな都市だし、しかもペテルブルクは海に面していて、運河などがあって、やっぱり違いも大きいですけどね。
 で、チーズやさん。店内は、チーズのにおいが充満していて、娘は、耐えられないと言って、すぐ外に出てしまいました。そこで、若干のおみやげを買いました。チーズのクッキーも美味です。パッケージがクラシカルです。あ、どこが世界一豪華かというと、お店の内装が宮殿の部屋みたいになっているということです。でも、小さなお店ですし、まあ、大したことはないかも。確か、モスクワのトヴェーリ通り沿いにも、ここよりもずっと大きくて豪華な、まるで宮殿のダンスホールのような内装の食料品店があります(*1)。
 (*1)エリセーエフスキー(Елисеевский)のこと。モスクワのエリセーエフスキーは、残念ながら、2021年4月に閉店した。
 さて、チーズ屋さんまで行ったあと、引き返すことにします。とにかくベルリンから日帰りでやってきているのですから。18時過ぎのICEに乗って、ベルリンに帰ります。日暮れが遅く、外はまだ明るいのですが、食堂車で夕食をいただきました。グヤーシュ(ハンガリー名物の具だくさんのスープ。大好きです)と黒パンとビールをいただきました。値段はそこそこですが、グヤーシュが以外と少な目でしたね。
 そういえば、この列車でたまたま妻と隣り合った中年の女性と親しくなりました。妻が、いろいろ話し始めたら、モスクワに3年間も過ごしたことがあることも判明。妻は、めちゃくちゃな英語とロシア語でいろいろ話していました。大学生の息子さんがポツダムに住んでいて、ドレスデンからそこへ向かうところだとか。私たちも明日ポツダムに行くつもりだと言ったら、とてもきれいな街だと言っていました。
 私たちの乗ったICEは、ベルリン・ツォー駅まで行くのですが、朝、ベルリン東駅の地下で見た大きなスーパーに行こうということになり、知り合った女性と別れて、先に降りました。スーパーで飲み物やおやつなどの買い物をして、再びツォーへ向かう電車に乗り、21時頃でしょうか、ようやくホテルに帰り着きました。

ポツダム
 
8月9日は、雨が降ったりやんだりの一日でした。朝、鉄道に乗って、ポツダムに向かいました。ポツダムは、ベルリンのツォー駅から急行列車で20分少々といったところにあります。ポツダムには、サンスーシ宮殿という美しい宮殿があり、目的地はそこです。ポツダム中央駅から宮殿までは、歩くと結構あるので、バスに乗りました。バスは途中で橋を渡り、少し上り坂になったところで、サンスーシ宮殿前の停留所があります。停留所を降りて歩くと、すぐ左手の高いところに宮殿の入り口があります。入り口のところにオランダ風の風車がありました。
 サンスーシ宮殿は、敷地がとても広く、その中に、宮殿シュロス・サンスーシという階段状の庭園の上に立つ宮殿、王室画廊ケーニッヒリッヒェ・ビルダー・ガレリー、新宮殿、中国茶亭などの建物があります。家族割引通し券を買って、それらの建物の内部を全部見ました。もっとも、時間が足りなかったので、新宮殿は、半分ほどしか見ることができませんでしたが。ドレスデンなどの宮殿とは違って、ポツダムの宮殿の内部は、往事の状態がよく保存されていて、一見の価値があります。
 宮殿内部は、ガイドが案内して見ることになっていて、個人で行くと、ドイツ語ガイドになってしまいます。サンスーシは、日本語のパンフレットを貸してもらえるので、ドイツ語の説明を聞きながら、そのパンフレットを読むことで、概要が把握できます。というか、ドイツ語の説明は長すぎるように思いますので、ドイツ語がわかる人も、この日本語のパンフレットで十分なのではないかと思います。
 王室画廊や中国茶亭は、自由見学でガイドはつきません。画廊は、どの絵がどの画家の手になるものかといった簡単な絵の説明のついたパンフレットがあり、英語のものはありますが、日本語のものはないようです。中国茶亭は小さいので、ガイドや説明パンフレットはありません。新宮殿は、やはりガイドの案内で見るのですが、こちらは日本語の説明パンフレットがなく、ひたすらドイツ語を聞かされます。まあ、それは無視して、ただ室内を眺めていればそれでいいのかなと思いますが、宮殿ごとにあるショップには、有料で日本語のカラー写真付きガイドブックが売られているので、入場を待っているときに、それを買って中に入ればいいと思います。
 庭園も美しいのですが、あいにくの雨模様で、寒いこともあり、残念ながら庭園をゆっくり散歩するという気分にはなりませんでした。新宮殿を見終わって、そこの近くのバス停から、バスに乗って、駅に戻りました。お昼を食べ損ねて、2時頃になりましたが、列車の中で、持ってきたパンやおやつなどで、簡単に済ませてしまいました。ホテルの朝食が美味しくて豪華なので、つい食べ過ぎてしまって、お昼は粗末な方がいいかなという感じです。
 ベルリンに戻って、旧東ベルリン地区のアレクサンドル・プラッツ駅(プラッツというのは広場のこと)で電車を降りて、駅前の世界時計を見たあと、テレビ塔に登りました。天気が悪いので、景色はよくないだろうと思って、私は、テレビ塔には登らず、テレビ塔の下のおみやげやさんとかを覗いて、妻と娘が降りてくるのを待っていました。おみやげやさんの中に、マトリョーシュカなどロシアみやげを売っているお店があり、お店の人もロシア人です。ロシア人は旅行者でも見かけましたが、このように商売している人もよく見かけます。
 テレビ塔はどうだった?と聞いたら、よかったと言っていました。遠くは見えなかったけれど、ベルリン市内はそこそこ見えたようです。夜は、ホテルのレストランでディナーをいただきました。フランクフルトのホテルでは、夕食はホテルでは食べませんでした。一度くらいホテルのレストランでディナーを食べようということになり、ベルリンのパラスホテルのレストランでということになったのです。美味しかったけれども、正直言って、ひとり1万円以上もする値段を考えると、とてもリーズナブルとは言えません。あと、リゾート地のホテルではないので、正装をした地元のお客さんが多く、軽装の私たちは、やはり妙な東洋人という感じだったと思います。

旅の終わり
 我が家で一番忙しいのは、いまや高校2年生の娘で、彼女の部活や大会、予備校などのスケジュールのあいだを縫っての旅行で、今年は、7泊8日(うち1泊は機中泊)とあわただしい日程でした。10日は、早朝の列車でベルリンを発ち、お昼頃にフランクフルトに着いて、ここで夕方まで過ごし、20時過ぎのフライトで帰国するというスケジュールです。
 フランクフルトでは、まずお昼を食べて、そのあと街歩きをしつつ、おみやげを買うという予定でしたが、まずは大きなスーツケースを預けるところを探さなければなりません。駅のインフォメーションに聞いた荷物預かり所に行ってスーツケースを預けようとしたら、ここに預けるより、ロッカーのほうが安いよとおじさんが教えてくれます。えっ? こんな大きなスーツケースが入るコインロッカーなんてあるの? と思いました。私たちが持っていたスーツケースは特大のものです。それに全員の衣類などが全部入っているのですから。こんな大きなスーツケースが入るコインロッカーは、いままで東京の駅では見かけたことがないのですが、ドイツにはあるんです。おじさんのいる荷物預かり所のすぐ前にあるロッカーは特大です。そこに荷物を預けて身軽になって、ドイツ最後の街歩きです。
 まずは昼食。最後は、伝統的なドイツ料理のレストランに行って、そこでグヤーシュとアイスバイン(豚足の塩漬け肉を茹でた料理。さっぱりとしていて美味です)をいただきました。そして私はビールではなくて、フランクフルト名物のアップルワインをいただきました。
 そのあとは、フランクフルトの街歩きを楽しみつつも、おみやげツアーです。とはいえ、結局、ほとんどのおみやげは、デパートで買いました。なんでこういう風習があるのかなと思いつつも、親兄弟や留守中に庭の水まきなどをお願いしている近所の方へ、お菓子とかいろいろおみやげを買いました。妻は、デパートのアクセサリー売り場で、姪たちへのおみやげにと、ネックレスなどをたくさん買っていました。
 我が家へのおみやげは、ドイツデザインの家庭用品です(下の写真)。ケトルは、鏡のように周りのものを映し込んでしまうので、メーカーのホームページのカタログを使いました。ケトルのメーカーは、WMF、ペッパーミル、ソルト・ミル、ワインオープナーのメーカーは、ZACKです。小さな調味料入れのセット(あらかじめコショウと塩が入っています)は、ヘンケルなどの家庭用品を売っていたキッチンウエアのお店で買ったもので、メーカーは不明です。
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2005-08-19 ドイツの話(1)
 8月4日(木)から11日(木)まで、ドイツのフランクフルト、ベルリン、ドレスデン、ポツダムに行っていました。7月末に国際スラブ学会がベルリンで開催されていたのですが、その時期はまだ大学での仕事があって出ることができず、8月に入ってから、まったくの休暇でドイツに行って来たのです。
 私はドイツは初めてではありませんが、旧東独地区のベルリン、ドレスデン、ポツダムなどに行ったのは今回が初めてです。妻と娘はドイツは全くの初めてです。ドイツに行くことになったのは、娘が、ドイツ、とくにベルリンに行きたいと言いだしたことがきっかけです。彼女はこの春に高校の行事でベートーベンの第9交響曲の合唱をドイツ語で練習してプロのオーケストラと共に舞台に上がって歌ったのですが、そのことでドイツ語に興味を持ったらしいのです。また以前から、ドイツの雑貨のデザインが気に入っていたことや、世界史の授業でドイツ近現代史に興味を持ったことなどもあって、ドイツに行ってみたいと思うようになったらしいです。一昨年はイギリスのロンドン、ケンブリッジ、湖水地方、スコットランドなどに行ったのですが、このときはとくに彼女の希望ではなかったのですが、今回の海外旅行は、彼女の希望が優先されたわけです。
 で、ドイツは、どうだったかというと、いろいろあるので、何回かに分けて書くつもりですが、まずは、涼しかったというのが、第一の印象です。涼しいというか、寒いくらいでした。英国もロシアも北欧も、8月は涼しいです。わかってはいましたが、やはり暑い盛りの日本からいきなり行くと、涼しさもひとしおです。セーターを着て、その上に上着を着たりなんかしたこともあったし、朝、吐く息が白くなったりすることもありました。夏の軽井沢なんてもんではありません。やはり、8月はヨーロッパに避暑に来るに限る、という感じでしょうか。一昨年の英国は、8月半ばを過ぎてから出かけたので、ロンドン以外はとても涼しかったのですが、今回は、行ったところはどこも涼しかったですね。もちろん、天候は気まぐれですから、同じ時期、暑い年もあるでしょうが。
 しかし、今回、天気はあまり良くなかったです。もっとも、本格的な雨に降られたのは、ポツダムに行った日だけでした。その日も一日中雨が降っていたわけではありませんでしたが、結構、長い間、傘をさしていました。また、雨が降らなくとも、一日中、よく晴れた日というのはなかったです。一日のうちに天気がめまぐるしく変わる日が多く、全体としては曇りがちだったですかね。そのため、写真は光量不足で暗めのものが多く、抜けるような青空をバックに、といった写真はほとんどありません。そのため、写真はレタッチソフトでブライトネスをかなり上げざるを得ないものが多く、その結果、空が白くとんでしまっている写真が多くなっています。
 今回、デジタルカメラのニコンD70で、かなりの枚数の写真を撮影して、そのクセがわかってきたような気がしますが、初期設定のままだと、コントラストにかなり敏感というか、とくに画面の中に明るい部分があると、そこに影響されて、全体がアンダー気味になる傾向があるということです。もう少し測光範囲の設定を中央部重点測光的にしないといけないかも知れません。初期設定では、全体として、ややアンダー気味だし、コントラストも押さえ気味ということは言えると思います。
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フランクフルト
 フランクフルトは、前に来たときは、空港でボン行きの飛行機に乗り換えただけで、街には出ていませんから、事実上、初めてです。空港の地下に「Sバーン」という郊外電車があって、それに乗ると3つめの駅、時間にして10分くらいでフランクフルト中央駅に着きますから、フランクフルトは、空港へのアクセスはとてもいい街と言えるでしょう。今回行ったフランクフルト、ベルリン、ドレスデン、ポツダムなどでは、Sバーンだけでなく、地下鉄(Uバーン)、市電、バスなどの市内交通機関は、鉄道の場合は、改札口とかがないし、市電やバスなどの場合は、入り口に料金支払機みたいなのがなく、しかもいずれも検札がないから、要するに、その気になればタダ乗りできるという、とても太っ腹な交通機関なんです。
 空港で、エスカレーターで下に降りたら、そのまま改札口なしにSバーンのホームに出ちゃって、どこで切符買うのかなと思って、上に戻ってインフォメーションで聞いたら、奥まったところにあるカウンターを教えられて、そこに行って、券売機でなく、窓口で現金を払って切符を買ったのだけれど、周りを見ると、誰も切符を買っていないのですね。定期券を持っているような地元の利用者ではなくて、明らかに旅行者みたいな人でも、切符を買っている様子がないので、????っていう感じ。もっとも、明らかに外国人旅行者っていう感じの人は我々だけみたいで、他の人は、みなドイツ人のようでしたけど。
 で、とにかくSバーンに乗って、フランクフルト中央駅まで移動。時間は、15時頃ですが、Sバーンは、すいています。座席はボックス席で、あまりきれいな車両ではなく、自動ドアも、車掌さんが一斉に開け閉めするシステムではなくて、乗客が個別に開け閉めするタイプなので、もともとあまり混むことはないのでしょう。東京周辺だと相模線にこのタイプのドアの車両がありますね。まあ、混み方も、相模線程度っていうことです。
 フランクフルトは、商業都市です。正確には、「フランクフルト・アム・マイン」と言うのですが、市内を流れる大きな川がマイン川だから、「マイン川沿いのフランクフルト」という呼び方をしているわけですね。ロストフ・ナ・ダヌー(ドン川沿いのロストフ)のようなものですね。
 そのマイン河畔にあるインターコンチネンタルホテルに泊まりました。このホテルは、中央駅から徒歩8分ってところでしょうか。私は、中央駅の地下に着いたSバーンを降りて地上に出ると、迷わず、最短距離でホテルに着きましたが、これは実は私の特技なんです。まず地上に出るとき、どの方向に出るか、ということが重要です。ホームに降りたときから、自分がどの方向から来たのか、その鉄道の方向に対して、目的地はどちらの方向にあるのかを考えながら、エスカレーターなどに乗ったり、通路を歩いたりするのです。途中で曲がったり方向転換したら、目的地の方向が、その都度、変わるので、そのことを気にしながら方向転換するのです。そうすれば、地上に出たとき、だいたいどっちの方向に目的地があるか、見当がつきます。事前に地図を見て、地理を頭の中に入れておけば、昼間なら地上に出てから迷うことはほとんどありません。昼間ですから方角がすぐわかり、目的地まで最短距離で行けます。
 今回、ホテルは、航空券と長距離鉄道切符の手配をお願いした旅行代理店にお願いして選んでもらったので、比較的手頃な値段でよいホテルをとってもらったと思いますが、当然のことながら、日本の旅行代理店が扱っているホテルですから、日本人旅行者がたくさんいました。成田から直行便があるフランクフルトがドイツ観光の入り口になっているため、そもそもこの街には日本から来る観光客が多いようです。
 ホテルに着いたら、歯ブラシがなくて、私は旅行のときはいつも歯ブラシを持ち歩いているので大丈夫なのですが、妻と娘は当然ホテルにあるものと思っていたから持ってこなかったというので、とりあえずお風呂に入ってひとやすみしたあと、妻と娘の歯ブラシを買いに、出かけることにしました。ついでに、ミネラルウォーターとか、ちょっとした食料も調達したいし、ということで娘と2人で、でかけました。駅からホテルまでのあいだに、スーパーとかコンビニらしきものは、駅構内にしかなかったようだったので、とにかく駅に直行しました。しかし、歯ブラシが、はたして駅構内のコンビニにあるかどうかと思っていたら、そこそこ大きなコンビニがあって、そこに歯ブラシがありました。ドイツ人は大口なのか、歯ブラシはかなり大きめです。ついでに、ミネラルウォーターやお菓子、そしてさっそくながらドイツのビールなどを買って、帰りました。長旅で疲れているので、外はまだ明るかったですが、19時頃には、家族全員、寝てしまいました。

フランクフルトの街歩きと美術館めぐり
 フランクフルトのマイン川沿い、中央駅から見ると対岸に、美術館や博物館がずらりと並んでいます。到着した翌日の8月5日は、まずは美術館・博物館めぐり。といっても、全部見たわけではなくて、見たのは、建築博物館と応用工芸博物館だけです。美術館や映画博物館などではなく、建築と応用工芸というのは、娘と私の趣味です。
 で、建築博物館は、建築史を説明するためにミニチュアが置かれているほかは、若干の写真パネルがあるだけで、正直言って、期待はずれ。応用工芸博物館は、優れたデザインの手工業製品、近代工業製品、電気製品などが展示されていて、これはなかなかのものでした。電気製品などは、やはり日本製のものはデザインがいまいちなので、予想通りあまり展示されていませんでしたが、ソニーなどのほかに、任天堂のゲームボーイや、バンダイのたまごっちが展示されていたのが印象的。ドイツの製品が多いのは当然ですが、あらためてドイツデザインの良さがわかりました。日本の備前焼の特設展をやっていて、これもなかなか興味深かったです。
 あと、ルフトハンザコーナーは、なかなか充実していました。美術館・博物館の建物自体もなかなかこった作りになっていたり、デザイン的に優れた建造物だったりして、外見もなかなか楽しめました。
 午後は、お店を覗いたり、ショッピングしたりしながら、街歩きを楽しみました。お店は、いわゆるブランドもののブティックもけっこうあるのですが、インテリアショップや家庭用品店、雑貨屋さんなんかを中心にまわりました。家庭用品は、質量ともに、けっこう、スゴイと思いました。夕方、娘が、マイン川沿いの遊歩道でジョギングをしたいというので、30分ほどつきあいました。といっても、私は、走らずに歩いていましたが。

ベルリンへの移動
 ベルリンへの移動は、ICE(インターシティエキスプレス)特急に乗って、4時間ほどの鉄道の旅。ICEは、奮発して1等にしたのですが、期待していた食事付きではありませんでした。英国では食事付きだったんですよね。しかし、列車は快適です。体感では新幹線ほど速くないようでしたが、あまり揺れがなく、乗り心地はかなりよかったです。
 期待していた景色は、それほどでもなかったです。やはり車窓は、ロンドン-エジンバラのほうが、海が見えたり変化に富んでいて、ずっときれいだと思います。こちらは、退屈な田園風景が続くだけです。風力発電の風車がゆったり回るのどかな田園風景です。

ベルリン・ツォー駅周辺の街歩き
 ベルリン中央駅は、まだ建築中で、西ベルリンの中心は、ベルリン・ツォー駅。「ツォー」というのは、英語では「ズー」、つまり動物園駅です。なるほど、近くに動物園があります。
 ツォーで降りて、宿泊先のパラス・ホテルまでは、やはり徒歩5分ほど。パラス・ホテルは、動物園の真ん前で、ホテルの裏手には、西ベルリンのショッピング街が広がっています。ホテルに行く途中、わざと戦災の被害を受けたままにしているカイザーウイルヘルム記念教会がありました。教会周辺の広場は、若者でごった返していて、まるで渋谷のハチ公前のようなにぎわい。
 ホテルに着いて一休みした後、さっそくホテルのすぐ隣のヨーロッパ・センター内のインフォメーションに行って、いろいろパンフレットをもらったり、おみやげや地図を買ったりしました。そのあと、ショッピング街に行きました。夕方18時頃といっても、まだかなり明るく、ショッピングを楽しむベルリン市民で、通りは混んでいます。ナイキの大きなショップがあって、娘が感動していました。娘は、高校で陸上競技部なので、ナイキのショップでかなりの時間を過ごしていましたね。ベネトンだとか、スワロフスキーだとか、いろいろなブランドのお店もあり、カフェも、たくさんあって、にぎやかな街です。この日(8月6日)、偶然、夕方から、市民マラソン大会と、インラインスケート大会が行われ、それもにぎわいに拍車をかけています。

旧東ベルリンへ
 翌日、8月7日の朝、バスに乗って、市内観光に出かけました。まずは、戦勝記念塔。19世紀後半に建てられたものですが、おそらくは第2次大戦のときのものと思われる弾痕が、たくさんついていました。そこから、ブランデンブルク門までは、森の中の散策。距離にして1キロくらいでしょうか。途中、ソ連の建てた独ソ戦慰霊碑を見て、ブランデンブルク門に、着きました。このあたりは、ベルリンの東西を分ける壁が立っていたところで、それを取り払った後、門の周辺に近代的な建物を建てたようです。おみやげ物屋を覗いたりして過ごした後、国会議事堂を見ました。中に入ることができるのですが、長い行列があるので、あきらめました。
 ブランデンブルク門近くの文学カフェというお店で昼食をとってから、旧東ベルリン地区へ向かいます。文学カフェは、ペテルブルクにもありますが、ベルリンのほうは、本当に古い書店がカフェになったようで、ペテルブルクの文学カフェとは、かなり雰囲気が違います。
 旧東ベルリン地区は、ギリシア古典様式の豪壮な建造物が続く街で、プロイセン帝国全盛時には、さぞや立派な街だったろうと想像されます。フンボルト大学、オペラハウスなどをみながら、ベルリン大聖堂に向かいます。大聖堂前に蚤の市のようなところがあって、ちょっとにぎわっています。ロシアを含めて東欧のものがかなり多く、売っている人も、ロシア人だったり、ポーランド人だったり、という感じです。
 ベルリン大聖堂は、ペテルブルクのイサク寺院のような感じですが、やはり大きな寺院です。天気が良くなったから景色がいいだろうと思い、階段を何百段も上がって、塔の上に登りました。予想通り、景色がよく、苦労のかいがありました。ベルリン大聖堂のあと、ペルガモン博物館に入りましたが、ここで、大聖堂の塔に登った疲れが出て、妻は、ギリシア文化を見終わったところでダウン。私と娘は、中東文化、イスラム文化まで、ひと通り見ましたが、かなり広くて、とても数時間では見切れません。丁寧な日本語の音声ガイドがあって、十分楽しめるのですが、やはり朝の元気なうちに行かないとダメですね。
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2005-07-31 卒業生との会食
 28日(木)、オープンキャンパスのあと、同じ会社に勤めているロシア語学科の卒業生2人と、吉祥寺で食事をしました。吉祥寺で、というのは、このお2人の会社の近くだからです。このお2人は、かなり年齢が違っていて、先輩のKOさんが、後輩のMMさんのリクルーターだったのです。それでもこうして、一緒に食事ができるというのも、やはり同窓生ならではですね。MMさんから、誕生日のプレゼントをいただいてしまいました。誕生日は、もうずいぶん前ですが、ありがとうございました。
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 誕生日といえば、BBS(掲示板)のほうには書いたのですが、12日の前期最後のゼミのとき、ゼミが終わったら、突然、誕生会をしてくれました。ろうそくを立てたケーキまで用意されていて、びっくり! ワインのプレゼント付き! ありがとう! ていうか、みんな親切というか、思いやりがあるというか、すごいなぁと思います。自分が学生だったときには、教員の誕生日のお祝いなんて、思いもつかなかったし。で、みんな、ゼミ論、卒論、がんばってね。
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 昨日、30日(土)は、また吉祥寺で学科の卒業生と食事をしました。今日は、2年生の納会です。まだレポート出していない人もいるのになぁ、って思ったら、2日まで提出日延長を願い出たROが、幹事じゃん! 教員としては複雑な心境です(笑) 夏休みに入ったというのに、けっこう学科の学生さんやら卒業生らとの食事会とかの予定がびっしり入っているっていうのも、結構、笑えるというか、なんというか。
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2005-07-27 前期終了
 22日(金)1限目に「ロシア地域研究入門1」の試験が終わって、前期の授業は終了しました。「ロシア地域研究入門1」の試験のあと、夏休みのロシア語練習問題を配布しました。1年生に夏休みも、少しはロシア語の勉強をしてほしいと思ったからですが、ある人にとっては負担と思ったかも知れないし、別の人にとっては、もっと欲しいと思ったかも知れません。勉強は自分でするものだから、イヤならやらなければよし、やりたい人はやればよいというものだけど、人間、やっぱりある程度の強制がないとなかなかできないものです。解答もつけちゃったし、成果を見せたい人だけ提出してくださいっていう、変則的なシステムにしてしまいましたが、どのくらいの学生さんが提出してくれるのかなぁと、不安と期待、半分半分ですね。1年生のみなさん、がんばってくださいね。
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 24日(日)はうちでゼミの打ち上げをやりました。アルバイトやら何やらで出られなかった人がいて残念でしたが、なかなか楽しかったです。おみやげを買ってきてくれた人がいて、すみませんでした。
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 今日、27日(水)はオープンキャンパス。台風一過のよく晴れた暑い日だったせいか、昨日の台風の影響なのか、それとも外国語学部の在学生懇談コーナーが奥まったところにあったせいか、予想よりも在学生の懇談コーナーを訪れてくれた高校生が少なかったです。明日はもっと来てくれるといいなぁと思います。午後、あまりに暇だったものだから、かなちゃんと1年生のテキストを使って会話の練習をしてしまいました(爆)。夕方から4年生との勉強会で、帰りは21時頃になりました。みなさんお疲れさまでした。
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2005-07-10 『水曜日のクルト』
 『水曜日のクルト』という童話集を小学校3年生のときに読んだことがあります。仲のよかった在日朝鮮韓国人のTKくんが「これおもしろいよ」と言って勧めてくれたものでした。1962年頃のことです。この童話はとてもおもしろくて、その後、本好きになったのはこの童話のおかげだと思います。
 それに、この童話のことを思い出すたびに、いまはどうしているのか知らない在日のTKくんのことを思い出します。幼稚園の頃から仲のよかったTKくんのうちには、何度か遊びに行ったことがあって、いつだったのか覚えていないけれど、彼の家に行ったときに、初めてハングルを見て、彼が「朝鮮人」だということをあらためて知り、「朝鮮人」を馬鹿にしていた大人たちの言動を腹立たしく思うようになったのも、あの頃でした。
 そんな思い出と重なる『水曜日のクルト』という童話集の中には、童話集のタイトルともなっている「水曜日のクルト」以外に、「めもあある美術館」という作品があって、これも印象に残っています。印象に残っていると言っても、細部は覚えていません。ただ、「水曜日のクルト」とか「めもあある美術館」という奇妙なタイトルと、何か心温まる作品だったという記憶だけが残っています。
 「めもあある」というのが memoir のことだと気づいたのは、たぶん中学生になってからだと思います。それまでは「めもあ」というものが「ある」と、意味もわからずに考えていました。「クルト」といういたずらっ子の奇妙な名前の意味はまだわかりません。作者の名前は全く思い出せませんでした。
 たぶん小学校の4年生頃に読んだ『ノンちゃん雲にのる』は、その後、藤村や鴎外といった明治期の文学から川端康成や三島由紀夫といった戦後の作家まで日本の近代文学をむさぼるように読んでいた中学生の頃に、よく通っていた古本屋で偶然見つけて、懐かしさのあまり買い求めてしばらく手元に置いてあったので、石井桃子という作家が書いたのだと言うことを知っていました。だから、『水曜日のクルト』も石井桃子の作品なのかと思って、図書館で検索してみたりしましたが、石井桃子の作品にそのようなものはありませんでした。
 そのうち、『水曜日のクルト』という童話集のタイトルもめったに思い出さなくなり、年月がたってしまいました。最近、なぜか突然、『水曜日のクルト』というタイトルを思い出したのです。インターネットというものが普及して以来、一度も思い出さなかったと思います。もしインターネットを使うようになったあとで、『水曜日のクルト』というタイトルを思い出したのなら、さっそくインターネットで検索してみたはずだからです。
 そして、先ほど、『水曜日のクルト』で検索をしてみました。いくつかの断片的な情報があり、その作者が大井三重子という童話作家であること、しかもこの童話作家は、その後、仁木悦子というペンネームでミステリー作家となったことなど、驚くべきこともわかりました。そして、1928年生まれの童話作家大井三重子こと、仁木悦子というミステリー作家は1986年に56歳という若さですでに亡くなっていることもわかりました。
 仁木悦子のファンらしき「つな」さんという方が詳細なホームページ(http://www.nikietsuko.com/)をつくっておられて、以上のことも含めて、いろいろなことがわかりました。まず、『水曜日のクルト』は、1961年11月15日に東都書房という出版社から出版されています。のちに1976年7月に偕成社からも出版されていますが、小学校3年生の私が読んだのは、出版年から言って、もちろん東都書房版です。確かに、『水曜日のクルト』という童話集には、「水曜日のクルト」以外に、「めもあある美術館」が収められており、そのほかにもいくつかの作品が収められていて、「ある水たまりの一生」だとか、「ありとあらゆるもののびんづめ」だとかという作品のタイトルを見て、遠い記憶がかすかによみがえりました。
 「つな」さんのホームページには作品の概要が書いてあるので、記憶を呼び覚ますのを手伝ってくれます。 水曜日のクルト』を読んで優しい気持ちになったこと、どの話だったのか、たぶん、「ありとあらゆるもののびんづめ」という話だったと思いますが、その中に病弱な子どもが出てきたことをかすかに覚えていますが、それは、作者の大井三重子が身体障害者で病気がちだったことを今日はじめて知って、そのこととと関係があるのかも知れないと思いました。
 『水曜日のクルト』のほかに、よく覚えている童話は佐藤さとるの『誰も知らない小さな国』だけれど、これは講談社文庫になっていて、娘に買い与えて、読み聞かせしたりしたから、よく覚えているし、いまも家のどこかにあると思います。そのほかに印象に残っている童話は、石森延男の『コタンの口笛』とか、坪田穣治の一連の作品ですが、やはり最初に出会った創作童話である『水曜日のクルト』がことのほか印象深い。
 もちろん、もっと小さいときに、それこそガリバーだとか、シンデレラだとか、一休さんやら、一寸法師やら、カチカチ山なんかを幼稚園のときには読んでいるのだろうけれど、そうしたいわゆる昔からの名作とか日本昔話だとかとは違って、創作童話は、記憶の奥底に沈潜する何かを持っているような気がします。
 もちろん『コタンの口笛』は、例えば、その後、中学生になってから読んだ藤村の『破戒』と同様に、差別の問題を考えさせるきっかけになりました。『コタンの口笛』が、アイヌの立場から見て少なからず問題があるらしいということをその後何かで読んだ気がしますが、小学生当時の私は、『コタンの口笛』を読んで、直感的ですが、わりと正しくアイヌ民族のことを理解したような気がします。その後、アイヌを含む北方少数民族の文化や、とくにアイヌ語地名などについて興味を持つきっかけになりました。しかし、『水曜日のクルト』は、そうした社会的な関心の芽生えを刺激するのではなく、もっと人間の心の奥底に響く何かを持っていたような気がします。いずれにせよ、自分のことを考えてみても、児童文学というのは、なかなかあなどれないものだと思います。
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2005-07-04 学生さんとロシア料理を食べに
 今日、夕方、2人の学生さんが部屋に立ち寄って四方山話をしていて、そのあと夕食でもということになって、新宿に行きました。南口のイタリアレストランに行こうと思っていたのだけれど、行ってみたら、月曜日は定休日ということで、気勢をそがれてしまいました。で、西口のロシア料理店「スンガリー」に行ったら、18名の予約が入っているとかで、店は空いていたものの、入れずじまい。こうなると意地になってしまう性分で、それではと東口店に行ったら、こちらは空いていて、OK。でも、やっとたどりついた「スンガリー」東口店では、ヴィネグレットがなかったし、ボルシチはトマト味でミネストローネ風だったし、黒パンは色が黒いだけでした。とはいえ、セリョートカは、まずまずの味かなと思いました。あと、お店の味とは関係ないけど、バルティカの3は、やっぱりおいしいです。で、「スンガリー」の味は、おいしいけれど、やっぱり本格的なロシア料理ではないような。
 私はロシア料理のお店に行ったらやっぱりちゃんとしたロシア料理が食べたいと思います。でも、ちゃんとしたロシア料理を出していたら、普通の日本人は、あんまりおいしいとは思わないだろうから、ビジネスとしてはなかなか成功できないのでしょうか。だから、やっぱり、日本人の味覚に合わせたロシア風料理になってしまうのだろうと思います。でも、いくらおいしくても、ロシア風料理ではなくて、やっぱりロシア料理が食べたいです。「スンガリー」、がんばって欲しいけど・・・。
 2人の学生さんには、ちょっと申し訳なかったかなと思います。新宿の街をうろうろしてしまったおかげで、結構、平日の夜の貴重な時間をロスさせてしまったし。私は、興に乗ると、いろいろ話題が展開できるけれど、今日は、ちょっと、気勢をそがれてしまったせいか、いまいち乗りが悪かったです。モスクワの話をいろいろしたかったのだけれど、なんだかあんまり話が出来なかった気がします。
 IKさんは、何かに迷っているのかなという気もしたけど、勘違いだったらごめんなさい。ていうか、勘は悪い方なので、たぶん、当たってないですよね。でも、ロシア語大好きなんですよね。その気持ちがあれば、きっと大丈夫。ONさんは、帰りの電車の中で話していて感じたのだけれど、やっぱりかなり吹っ切れてきたというか、去年の春先の頃とは見違えるほど。よかったよかった。
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2005-07-03 地域懇談会、就職懇談会
 なんだか、1ヵ月が過ぎるのがとても速くて自分のからだがそのスピードについていけない、そんな感じがします。この前のDiaryに書かなかったけれど、5月20日(金)と6月3日(金)の2回、神奈川県海老名市の連続市民講座「隣国ロシアを知る」で講師を務めました。海老名は小田急線沿線なので通り過ぎたことはあるものの、駅を降りたのは今回が始めてでした。講義は1回2時間で、合計4時間。その4時間でロシアの歴史を概観するので、話は大急ぎです。歴史をベタに概説するのでは、4時間では、表面だけの教科書的な話になってしまっておもしろくないし、ということで、エピソード中心に、ロシア国家の起源から、プーチンまで、ポイントというか、自分でおもしろいと思う話だけ、話をさせていただきました。
 聴衆の方たち、平均年齢64歳とかで、年輩の方が多かったけれど、60人ほどの海老名市民の方たち、消化不良にならなかったでしょうか。2回目のときに、ある方からレタスと青梅をいただきました。レタスはおいしくいただきました。青梅は、いまこの書斎の片隅で、焼酎に浸かって、静かに眠っています。ときどき、研究会と称して、大学以外のところで報告などをさせていただく機会がありますが、一期一会という感じで、全く違うところで話をさせていただき、その土地の方と、ロシアのことについて言葉を交わしたり、体験をお伺いしたりするのは楽しいし、勉強になります。
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 6月11日は、「地域懇談会」と称する、保護者会がありました。大学教員になったとき、保護者会があるのには少し驚きましたが、昔、塾教師をやっていたときに保護者会を経験しているので、最初から、とくにとまどうことはありませんでした。遠くからご夫婦でいらっしゃる保護者の方もおられるし、やはり高い学費を払って子どもを通わせている大学にいちど行って、教師の話でも聞いてみようかという気持ちになるご両親の気持ちはよくわかります。一人で親元を離れて暮らしている子どもの様子を見に来る口実ということもあるでしょう。
 今年は個人面談を希望する方が多かったけれど、短い時間で何人もの方と面談するのは大変です。私個人は、教員と話をしてみたいと思う保護者の方は、普段のときでもよいので、どんどん来ていただければと思います。そうすれば、じっくりと話ができます。授業参観というものがとくにあるわけではありませんが、授業を見に来ていただくのも悪くないような気がします。教員にもいろいろな考えがあるだろうけれど、私個人は、授業参観をしていただいても構わないし、自分の子どもが、へぇーこんな勉強をしてるんだ、みたいなことがわかっていいのではないかと思います。まあ、ロシア語の授業をずーっと見ているのはつらいだろうけど、講義系の授業なら、そこそこおもしろいのではないかと思います。
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 22日(水)と29日(水)と連続して就職懇談会がありました。22日の就職懇談会はOG/OBが来てくれて、そのあと食事会に行きました。毎年のことだけれど、忙しい仕事の合間に来てくれて、本当にありがたいです。その後の食事会もとても楽しい。29日は就活を終えたばかりの4年生の話でした。これはこれで、ごく最近のリアルでホットな話なので興味深い。就活の仕方、就活の教訓は、人それぞれで、一概に、こうすればいいということはない、ということも話を聞くとわかります。はっきり言えることは、就活を終えると、学生が見違えるほど成長しているということです。この成長を達成することが就活で成功することだと言えます。
 就職に関して教員が貢献できることは、実はほとんどありません。就職懇談会を始めたのは、その貢献できることがないことに気づき、それでも何かをと思ったからです。しかし、この就職懇談会も、4年生と卒業生の協力があって始めて成り立つものであって、教員のやれることは、せいぜい司会程度のことに過ぎません。しかし、教師とはそもそもそういうものなのかも知れません。
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 昨年の夏休みに草稿を書いていた家の本『建築家とつくる「こだわり派」の家-スタイリッシュ&ローコストの家づくり-』勉誠出版からようやく出版されます。何度も校正したので、もう飽きてしまいましたが、それでも出来たばかりの本を読んでいたら、誤変換を見つけてしまいました。それはともかく、出版社の編集担当の方は、図版も多くて編集が大変だったろうと思います。確かに、思いの外、出版までに時間がかかりました。しかし、読み返してみると、いつもそうなのですが、後悔することも多いのです。こんなことは書かなければよかったとか、もっとこんなことを書けばよかったとか、いろいろ思うのです。それにしても、この本を買ってくれる方はどのくらい、いるのだろうか、気にかかります。
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2005-06-03 研究室のテーブルとイス
 深夜の午前2時。歳をとると眠る時間が少なくてすむっていう気がします。4時間くらいしか眠らないのも日常茶飯です。
 さて、2号館に移転して、ようやく落ち着いてきました。というのも、 Inovator のイス(*1)3個と、ワーキングテーブルを2台買って、ようやく自分らしい空間が出来たからです。Inovator のイスは自宅のリビングで使っているものと同じ、お気に入りのキャプテンです。このキャプテンを自宅で使い始めてからもう25年にもなります。クッション部分のデザインのマイナーチェンジはあるものの、デザインの基本は変わっていません。さすがスウェーデンです(根拠ありませんが)。ワーキングテーブルも、自宅で使っているのと同じInovatorのコラムテーブルにしようと思ったのですが、これは7万円以上する高いものなので、2台必要だし、あきらめて、ずっと安いコクヨの Cyze シリーズ(*2)のものにしました。サイドデスクも Cyze シリーズのものです。Cyze シリーズは安いですが、その割には悪くありません。もちろんInovatorのコラムテーブルに比べれば多少チープ感はありますが、値段が3分の1くらいだと思うと、それも我慢できます。もちろん一回り小さいので、その分も値段は安くはなっています。
 (*1)Captain シリーズ。2023年12月現在も、現行品です。
 (*2)2023年12月現在、Cyze シリーズは製造されておらず、旧製品となっています。
 あとは、自宅から洋書(英語とロシア語)の単行本を送って、書架に並べれば、なんとか落ち着けるでしょう。窓から見える四谷の夜景が美しいです。遠くに新宿の高層ビルが見えるのもよいと思います。
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2005-05-12 授業について
 毎日いろいろあります。なぜか気ぜわしい毎日です。そういえばゴールデンウイークなるものも、いつの間にか過ぎてしまいましたが、イベントと言えば、5月4日に2年生の何人かが遊びに来てくれたことぐらいでしょうか。
 ところで、最近は、授業のない月曜日にも大学に出かけています。社会科学系の大学院進学希望の学生さんが今年は多く、それぞれ英語を読んだりする指導をするためです。学生さんの相手をするのは教師の勤めだが、よもやま話をしているわけにもいかないので、これはこれでけっこうしんどい。自分でも勉強になるというか、英語力のボケ防止にはなります(笑)。今年は待望のロシア政治を勉強したいという学生さんがいるので、楽しみではあります。ゼミもなかなか賑わっていて、楽しい。
 とはいえ、授業については、いろいろ悩みがあります。とくに1年生向けの「ロシア地域研究入門」は、ベタな講義では、本当に休憩時間になってしまう学生が多いので、工夫が必要で、ここ何年も試行錯誤を繰り返しています。授業の最初の新聞利用の学習は、それなりに成果があるのかなという気はしています。プロジェクターに画像などを映すなどして「ビジュアル系」の授業を多少は取り入れていますが、やはり、伝えたい知識というか情報もそれなりにあり、それをベタっとした講義でなく、どのようにしたら興味を持って理解してもらえるかが課題です。ビジュアル教材を取り入れても、それらはやはりどうしても補助教材の域を出ないと思います。
 2年生向けの「ロシア地域研究方法論」も、実は、試行錯誤です。昨年3月で辞められた外川先生が長年やってこられた授業を、私が昨年4月から引き継いだのですが、図書館演習やパソコン演習はともかく、資料の調べ方、本の読み方、レポート・論文の書き方といったノウハウ的なことを、一斉授業の方式で教えるのは、意外と難しいのです。
 とりあえず、知識を教えることよりも、実践することを中心にしようと考えて、昨年もいろいろ試行錯誤したが、やはりどうしても、知識を教えてしまう授業になりがちです。どうしたら、学生さんたちが、自分の頭や手足を使ってくれるのか、なかなか考えどころです。テストのようなものを授業中にやらせれば、それなりに頭を使わせることはできるのですが、知識を覚えさせようとするのではないから、テスト形式にできるものは限られています。手足を使わせたいのですが、どうすればいいのでしょうか。
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2005-04-10 オリエンテーションキャンプ!
 恒例のオリエンテーションキャンプ。入学したばかりで、まだあまりよく知らない人たちといきなり泊りがけの旅行というのも、正直、しんどいって思う人もいるかも知れません。ま、しかし、ある種のショック療法というか、オリキャンは、それなりに効果があります。一挙に学生どうし、あるいは教員とも親しくなれるので、とてもよい行事だと思います。教師のほうも、けっこうしんどいのではあるけれど。でも、私は、実は、毎年楽しみにしています。今年の学生さんはどんなだろうっていう好奇心とかでちょっとワクワクするのです。
 ホームページを開設して2年あまり。受験生のときからホームページを見ている人が少しずつ増えているようです。入学前にメールをくれて、いろいろ聞いてくる学生さんも増えてきました。オリキャン前に、ある程度、意思の疎通が出来ているというのも、なんだか楽しいですね。オリキャンが終わって、まもなく授業が始まるというとき、不安と期待でいっぱいになっているであろう学生さんたちと、メールのやり取りをしながら、こちらはこちらで、授業の準備をしなくっちゃ、と気ぜわしい。
 卒業した学生からも、なんだかんだとメールが来るのも、また楽しい。東北大の大学院に進学した学生さんは、強風にあおられたキャンパスのサークル勧誘の立て看にあたって、怪我をしたっていうメールが来ました。そうかと思うと、就職したてで、一念発起、教職の免状を通信課程で取ろうと思い立った卒業生もいます。
 今年は花見のタイミングを逸してしまった感がありますが、日野に遊びに来る学生さんはいないだろうか・・・。
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2005-04-01 新しい1年が始まる!
 日記じゃなくて、やっぱりほとんど月記になってるなぁ(反省)。  で、昨日(3月31日)は、在学生ガイダンスでした。久しぶりに会った学生さんも、春休み中もときどき顔を合わせていた学生さんもいます。ま、ガイダンスなんての、言ってみればルーティンワークで、とくに目新しいこともないような気もするけど、これからまた長く苦しい(!)1年が始まるという意味では、やはりちょっとは節目の行事なのかなとも思います。ガイダンスで、何人かの学生さんのやる気まんまんの発言なんかを聞くと、「よっしゃぁ」と気合が入る。
 しかし、気にかかるのは、やっぱり日ごろから気になっている学生さんが、ガイダンスに来てないことです。元気で、おさぼりして、ガイダンスに来ないってのは、まあ、来ないのは困るけど、はっきり言って、それほど心配じゃあない。「こらっ、最初っからサボってどうする気だ!」みたいな感じではあるけど。某先生はそんな学生を掴まえては、新学期早々、怒鳴りまくってました。
 でも某先生に怒鳴られてるうちは、まだいい。怒鳴りたくても、出てこないんじゃぁ、怒鳴りようがないものなぁ・・・。あの学生さんはどうしたんだろう・・・と心配しながら、学生さんの顔をぶれを見えない目で(完全に見えないわけではないけど)追っていました。
 そんな風に、どうしたんだろうと心配していた学生さんから、「体調がよくなかったので、休んでしまいすみません」などと携帯にメールが入ってきて、ちょっと安心していたら、突然、「急ですが、これから大学に行きます」とメールが入って、そのうち、やって来ました。別に、体調が悪くて休んだわけで、おさぼりではないから、別におこりもしなかったけれど、それでも「これから行きます」と殊勝なことをおっしゃる。体調が悪いのなら無理することはないのにと思っているうちに、もう四谷に着きました、とメールが入ります。ガイダンスの本番には来れなかったけど、こうして遅れてやって来る学生さんは、まだ来ないよりはずっといいと思います。
 しかし昨日は実にいろいろなことがあった日でした。というのも、そんな遅れてやって来る学生さんがいる一方で、なぜかロシア語学科の入試に失敗した学生さんが遊びに来ました。この学生さんは、そういうわけだから別の大学に入るわけで、こっちだって、そりゃぁ残念です。なんで、入試に落ちちゃうんだよって、悲しくなります。入試のこと蒸し返して、ごめん、とは思うけど、ロシア語勉強したい学生さんに教えられないってのも、悲しいです。
 まあ大学ってのは、いわば入れ物で、この入れ物に入り込めた人だけに、独占的に教えるところで、不特定多数に教えるようにはできていません。でも、昔からの私の口癖だけど、人生なんて自分の思うとおりになんか行く訳じゃないのです。入りたくても入れない。そんな人がいる一方で、入ったけど、こんなところに来てしまって、どうしようっていう人もいたりします。しかし、とりあえず、入ったところでベストを尽くすしかないんじゃないかなと思います。MNさん、また遊びに来てもいいですよ。でも、行くことにした大学も、とってもいいところだと思います。
 そんなこんなで、深夜近くになって、大学の近くの中華料理屋で、私の紹介した職場で知り合った人と結婚するっていうMさん(ごめん、下の名前は何だっけ)と、モスクワでの2年余りの激務から生還してきたばかりのNYと、めっぽう付き合いのいい現役ロシア語学科生のIKさんと、某先生が飲んだくれているところに、Добрый вечер! などと言いながら、加わりました。
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 今日は、入学式! クリスチャンではないし、新入生でもないのに、やはりいつも感激してしまう入学式。でも、今だから素直に感激できるんだろうな、と思います。たぶん、昔の、つまり大学に入学するころの自分だったら、けっこうとんがっていたから、「何? この宗教儀式は? ナンセンス」なんて思って、反発してたかもなぁ、などと思います。それが、人間が丸くなったのか、やはり年相応に寛容になったのか、例の聖書の「種まき」の話も、だんだん、いい話かも、と思えてきます。
 しかし、やっぱり、学科別集会で、入試のときに会った学生さんたちと、再会するって言うか、また顔を会わせるのは、本当にうれしくて、こっちがわくわくします。ちょっと前の卒業式のときとは、また違って、新しい学生さんたちを迎えるのは、何か、どきどき、わくわくします。まだ初日だっていうのに、何人かの学生さんと、やあっ、こんちわっていう感じで話ができるっていうのも、いいものです。一般入試の2次゙試験が廃止になったら、一般入試で入学してくる学生さんたちとは、本当に、入学式の日が初対面になってしまうんだなと思うと、やっぱり2次試験はあったほうがいいなと、つくづく思います。確かに受験する側の負担、大学の事務方の負担もあるから、2次試験は廃止する方向なんだろうけど、入試で面接やるっていうのは、いろんな意味で本当は望ましいことだと思います。
 ああ、しかし、入学式だっていうのに、研究室の本の並び方はめちゃくちゃだし、学科会議室はダンボールが積まれているし、当分、片付けられない状態が続くのでしょうか・・・
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2005-03-27 大学教員に春休みはない
 「楽しい春休みをお過ごしください」なんて、心の優しい学生が親切心でメールの最後に書いてくれたりしますが、実は胸にぐさりときます。なぜかと言えば、教員に春休みなんかないからです。確かに授業は1月の末で終わりますが、そのあとは期末試験があり、2月にはいれば一般入試がそれに続きます。
 いつもだったら、そのはずでした。しかし、今年は、2号館が完成して、外国語学部が10号館から2号館に移転することになりました。その引越しが3月に行われたのです。書棚にきちんと並んでいる書籍だけは業者が箱詰めしてくれますが、私の場合は、書棚が足らないためにすべてが書棚にきちんと並んでいるわけではありません。ああ、そうしたことに何日費やしたことでしょうか。
 こうして苦労の末、移転したのに、稟請どおりの備品が納められていなくて、あらかじめ予定を立てた通りに物が納まらなかったりして、どこかのおバカさんのために余計な仕事が増えるのだから、いやになってしまいます。「ねえ、みんな、仕事はちゃんとやろうよね」。本当にそう言いたくなります。
 春休み中、本当は、大学院志望の学生ともっと勉強したかったし、授業の準備もしたかったけれど、どうやらどれも中途半端になってしまい、申し訳ないと思います。
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 そんな中、一服の清涼剤というか、なんというか、楽しいのは、やはり学生さんと一緒に飲んだり食べたりすることです。
 東北大の大学院に行くことになったYTさんは、長いこといろいろ教えてきて、卒論の指導もして、本人の猛烈な努力のかいあって、希望通りの進路に進むことができました。YTさんと東京での最後の食事をしましたが、話にノリすぎて、あわや終電に乗り遅れるかというところでした。
 24日は卒業式。いつもいつも、1年でもっとも、晴れやかな日は、この日です。謝恩会に呼ばれて、いつもよりもお酒を少し飲みすぎたかもしれません。ギャラリーページに謝恩会の写真をアップしておきましたが(*1)、これは内輪のものなので、パスワードでアクセス制限をかけてあります。関係者は見ればわかりますが、私は、ひどい花粉症で鼻も完全に詰まっていて、涙目になっていて、情けない顔をして写真に写っています。翌日、新任のスヴェトラーナ先生との打ち合わせがあったので、さすがに徹夜はしませんでしたが、今年の卒業生は、感慨もひとしおのものがあって、夜を徹して飲みたい連中です。
 (*1)2005年3月24日の謝恩会の写真をご覧になりたい方は、お手数ですが、上野宛に、メールでその旨ご連絡ください。
 就活に苦労したTAさんも、ものすごい努力家の成果が実って総代になったTYさんも、みんないい顔をしています。
 ひそかに卒業後のことを心配していたNYさんが、念願かなってバレエの先生になれるそうです。あんなにはしゃいで話をするNYさんを初めて見た気がします。よかったね。
 卒論の取り組みがあまりに遅くて苦労したFYさんは、いつものお茶目な笑顔を振りまいてくれて、実に楽しい人です。彼女の就職先は、お茶目な彼女にはぴったりだと思うのは私だけではないでしょう。
 留年したAYが、「この学年と一緒に卒業したかった」と、何度も何度も言っていました。それはもう仕方がないことだけど、AYの気持ちは痛いほどわかります。いつも、一緒にやってきたのに、卒業は一緒にできないのですから。でも取り残されたわけじゃない。1年後に追いつけばいいじゃないですか。
 そう言えば、AYと一緒に留年したWSは、最近は飲み会にも来ないし、この謝恩会にももちろん来ていなかったけれど、まもなくロシアへと旅立ちます。WSは卒業が2年遅れることになります。それもまた人生だと思います。
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2005-02-05 追いコン
 2月4日(金)は恒例のロシア語学科主催の追いコンでした。まずは準備して下さった2004年度ヘルパーのみなさんありがとうございました。いつもと違って、今回は、留学その他でまだ卒業しない4年生の荒川くん(vo, g)、谷中くん(g)、内田くん(Kb)の3人が、卒業していく仲間に贈る曲として、The Beatles の Let it be を演奏してくれて、すごくよかったですね。悩んでいるとき、困難にぶつかったとき、「ありのままでいよう(Let it be)」と歌うこの曲は、卒業生を送り出すのにもふさわしいんだなと気づきました。
 2次会は四谷のしんみちのいつもの居酒屋でしたが、最初は集まりが悪いなぁと、ちょっと不安でしたが、そのうち、どんどん増えてきて、けっこう盛り上がりましたね。楽しかったです。
 3次会は三々五々という感じでしたが、私は、西荻の荒川くんグループに1時間ほどおじゃましました。荒川くん、谷中くん、テッシー、ウッチー、サキ、ハマコ、いずみの、例の仲良し組に、ちょっとだけ加わらせていただきました。
 みなさんお疲れさまでした。
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2005-01-17 カメラの話
 注意深い人は、Galleryのページのカメラについての注記に、これまでのNikon F801のほかに、Nikon D70とあるのに気がついたかも知れません。そう、ついにデジタルカメラを使い始めたのです。
 これまで使っていたNikon F801は、1989年当時、ニコンから発売されていた、ニコンの一眼レフ・カメラの中級機でした。1990年の始めに在ソ連日本大使館に赴任することが決まり、高校生のときから20年近いあいだ使ってきた、旭光学(現ペンタックス)の一眼レフ・カメラ、Pentax SPFにかえて、ニコンのフルオート、オートフォーカスの一眼レフを初めて購入したのでした。旭光学にも、もちろん、フルオート、オートフォーカスの一眼レフ・カメラはありましたが、当時の旭光学の一眼レフ・カメラの交換レンズのマウント(レンズとカメラ本体との接合部分)の仕様は、私が持っていた20年前の旭光学の一眼レフ・カメラのマウントとは違っていたので、手持ちのレンズがそのまま使えるわけではなく、したがって新しい一眼レフ・カメラを買おうとするとき、旭光学のPentaxにこだわる必要はありませんでした。そして、新しく買ったのは、Pentaxを使いながらも、いつの日か使ってみたいと、いわば憧れていたNikonでした。
 もっとも、当時のNikonの高級機は、Nikon F4で、あまりに高価で、安月給の国家公務員だった私には気楽に買えるものではありませんでした。そこで実際に購入したのは、中級機と位置づけられるF801でした。それでも、1989年当時のNikon F801の定価(税別、以下同様)は、本体95,000円、日付を写し込むデータバック(MF-20)が22,000円、いちばん小さい専用ストロボ(スピードライトSB-23)が25,000円、同時に買った28~85ミリのオートフォーカス・ズーム・レンズ(Zoom Nikkor 28-85mm F3.5-4.5S)が63,000円、しめて185,000円でした。  むろん、実際の購入価格は、それよりも少し安かったのですが、それでも、当時の一月分の給料をほぼ全額つぎ込まなければ買えない金額でした。そのほかにケンコーのレンズフィルターも買ったのですが手元に資料がなく、価格はわかりません。
 そして、このNikon F801を私は愛用し続けてきました。1991年のクーデター未遂事件のときも、モスクワのホワイトハウスのバリケードの内側で、このカメラで写真を写しました。むろんモスクワで写したのは、事件ばかりでなく、その多くは、美しい教会や白樺の森、家族や友人たちです。
 そして帰国後も、さまざまなものを写しましたし、モスクワやそのほかの外国に行くときにも、いつも、このカメラを携えていきました。このNikon F801は、まだどこも具合が悪くなっていません。零下20度以下でもちゃんと動いたし、ケースに入れて持ち運ぶということをしないために、けっこう、ハードな扱いをしてきましたが、まだ一度も故障していません。
 だから、このカメラを使い続けるのに決してやぶさかではないのですが、そんな私がカメラを買い換えようと思ったのは、ホームページを作成するようになって、ホームページに写真を載せるようになったからです。ホームページに写真を載せるためには、写真をデジタル化して、コンピュータで処理できるファイルにしなければなりません。だからデジタルカメラが便利なのは当然です。デジタルカメラは、シャッターを押せば、その写真は、ただちにコンピュータで処理できるファイルとして記録されていくからです。それを何らかの方法でコンピュータにコピーすればすぐにホームページにアップロードできるのです。こういったデジタルカメラで写真を撮り、ファイル化するという行為は、携帯で写真を撮ったりする多くの若者にとっては、無意識の行為でしかないだろうと思います。
 この便利なデジタルカメラを、しかし私はすぐには購入しませんでした。値段が手頃なものはいくらでもありました。デジタルカメラは、カメラとしては、従来のフィルムカメラに比べて決して高価ではありません。しかし、私には買いたいと思うカメラがなかったのです。正確に言えば、買えそうな価格で、買ってもよいと思うカメラがなかったのです。買えそうな価格帯のデジタルカメラは、いわゆるコンパクトサイズのものでしたが、それを買う気はあまりしませんでした。
 私はフィルムカメラもコンパクトカメラを普段は使っていません。妻や娘が使うためにコンパクトカメラは持っていて(Konica BiG mini BM-301) 、これはこれでなかなかよいカメラだとは思っていますが、当然のことながらやはりレンズ性能には限界があります。普段、フィルム・カメラでコンパクト・カメラを使っていれば、私がホームページの作成を始めた2002年12月当時、すでにデジタルカメラがコンパクトカメラの分野では相当に普及していたので、すんなりとデジタル・カメラを買ったのかも知れませんが、フィルム・カメラでコンパクト・カメラを使っていなかったものだから、デジタルカメラのコンパクト・カメラには手が伸びなかったのです。
 で、どうしたかというと、将来デジタルカメラを買うとしても、膨大なネガの資産を活かすことも考えれば無駄にならないと考え、フィルム・スキャナー(CanoScan FS4000US)を買ったのです。これはこれで、定価は98,000円もするのですが、古いネガでも高解像度でデジタル化できるというのは、利用価値が高いと思います。しかし、ネガをデジタル・ファイルに読み込む(スキャンする)ためには思いのほか時間がかかり、大量のネガを高解像度でスキャンするのは、かなり根気の要る仕事であることが判明しました。
 それでも、ホームページに載せる写真はこれでデジタル化いていたわけですが、そのうちに、ニコンが、ついに手ごろな価格のデジタル一眼レフ・カメラを出してきました。それが、Nikon D70でした。ウクライナに出張することになり、急遽、それを買うことにしたのです。なぜニコンのデジタル一眼レフ・カメラを買うのかといえば、それは言うまでもなく、これまで使っていたニコンの一眼レフ・カメラのレンズが、そのまま使えるからです。
 使ってみた感じはどうかというと、何よりも便利です。今回、ウクライナで200枚以上の写真を撮りましたが、これはフィルムなら、36枚撮りで6本ぐらいに相当します。それでも、1枚の512MBのコンパクトフラッシュ・カードにすべて収まって、それでもまだかなり余裕があるのですから、便利です。かなり高解像度で撮影しているのですが、512MBだと300枚くらいの写真が撮れるようです。バッテリーは持つのかなと思って、充電用のアダプターと、予備のバッテリーも持っていきましたが、自宅で充電していったきりで、帰ってくるまで充電の必要はありませんでした。
 むろん、観光でウクライナに行ったわけではありませんから、写真を撮るために使った時間はわずかですし、投票所の開票風景以外は、ほとんど投票日の前日の1日だけしか、写真を撮っていません。ですから、比較的余裕のある2~3週間の旅行なら、512MBのコンパクト・フラッシュカード1枚では足りないかも知れません。むろん、ノートパソコンなりの外部記憶装置にカードのデータをコピーすればカードは1枚で足りますが、カードは50ミリ四方の小さなものですから、カードを複数枚持っていくほうが、外部記憶装置を持っていくよりも、旅行の場合にはリーズナブルだろうと思います。
 ホームページ上での写真の見た目は、Galleryページを見たとおりです。ホームページでは、ファイルサイズをかなり小さくするために、相当画質を落としていますから、スキャナーでスキャンしたものと、デジタルカメラで撮影したものとを比較することは難しいと思います。しかし、かりに画質を落とす前のもので比較しても、そもそも、被写体の色合いの鮮やかさなどのよしあし、写真自体の写りのよしあしとかで、カメラの性能についての印象はかなり違いますから、本当は同じ条件で同じ被写体を同じレンズで、フィルムカメラとデジタルカメラでそれぞれ撮影して、ネガからデジタル化したものと、デジタルカメラで撮ったものとを比較しないと正しい比較はできないでしょう。
 ですから、まったくの印象論ですが、感じとしては、デジタルカメラのほうが画素数が小さいのに、写りの結果は、細部がくっきりとしている感じがあります。スキャナーの有効画素数は3780×5669、Nikon D70のそれは2000×3008ですから、数字的にはスキャナーのほうが高解像度ですが、仕上がりは、数字通りではないということなのです。一度、ネガになったものをスキャナーで読み込むので、そこに問題があるように思います。こんなことなら、はやくデジカメを買えばよかったと思ったものですが、D70は2004年の春頃に発売されたのだから、私としては、そう遅い買い物ではないでしょう。
 D70本体の定価は150,000円ですから、決して安いとは言えませんし、しかも、これだけではカメラの役は果たさず、レンズとコンパクトフラッシュカードが別途必ず必要なのですから、トータルで考えると、かなり高いと言えるでしょう。ちなみに、512MBのコンパクトフラッシュカードは、税込み8,800円で購入しました(LEXAR Media製、定価は知りません)。それでも、便利だし、写りも十分に満足できるものだし、カメラ自体の撮影機能に関しての使い勝手は、10数年前のF801とそう変わりません。  カメラ自体の使い方としては、当然、フィルムカメラにはない再生機能があるのですから、その分、機能は複雑化しています。またフィルム・カメラの場合は、あとでプリントしてみて、失敗作だったらあきらめるしかないのですが、デジタルの場合は、ピントさえ合っていれば、あとはソフト的に加工修正が可能なので、その分、あとの処理が必要になってきます。
 これは、デジタル化の長所でもありますが、欠点ともなりえます。ネガをスキャナーで読み込ませてから、私はコントラストや色合いを調整していましたが、読み込ませる(スキャニング)のにかなりの時間がかかる上、調整にも相当時間がかかっていました。むろん色合いやコントラストの調整はしなくてもよいし、簡単にお任せでやってしまう方法もありますが、やはり自分自身でいろいろやりたくなるものです。この点はデジタルカメラになっても、やはり必要で、相変わらず、コントラストや色合いの調整には時間がかかります。
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2005-01-09 新年のごあいさつ
 もう1月9日です。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 ところで、今年の年賀状は、右側のようなものでした。出すのが大変遅くなって、1月になってから出すことになってしまいました。遅くなったのは、年賀状にあるとおり、ウクライナ大統領選挙の選挙監視に出かけていたからですが、実は、12月28日の夜に帰国していたので、まあ昨年中に無理すれば書けたのかも知れません。
 しかし、そもそも12月26日が投票日だというのに、無理をして28日までに帰国したのは、29日と30日に、都立大の集中授業をしなければならなかったからです。集中授業は、もともとは、12月24日と27-29日に設定されていたのですが、選挙監視に出かけるために急遽日程を変更して、12月29、30日と、新年の1月6、7日にしたのです。
 そんなこんなで年末はあわただしく過ぎ、年賀状は年明けになってから書いたというわけです。年賀状の絵は、私が撮影したキエフのソフィア大聖堂の写真をデザイン化したものです。写真のほうはGalleryページにありますのでご覧になって下さい。
 大統領選挙のほうは、全体的な動向については、ウクライナが専門でない私には、きちんとしたことが語れないのですが、キエフ州のヴィシェゴロド地区のいくつかの投票所で選挙監視をした限りでは、今回の選挙はまともに行われたという印象を持っています。
 まあ、OSCEだけで約1500人もの選挙監視員が動員されていて、さらにOSCEのほかにも多くの組織が選挙監視をしている中で、またもや大がかりな不正があったら、ヤヌコヴィチ候補というよりもウクライナ全体が世界から笑いものにされてしまうでしょう。実際に、投票所では、ヤヌコヴィチ側とユシチェンコ側の双方から同じ人数ずつ選挙管理委員がでているのですが、さすがに、今回は協力しあって、とにかくこれで再投票は終わりにしよう、すっきりやって新年を迎えよう、というムードでした。
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